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談志一代記~前座修行~

談志一代記つづき。かなり間が空いてしまった。ともかく小さん門下に入り落語家の第一歩を踏み出した。まずは名前の話で。

—師匠は弟子入りしてまず前座名が小よしですよね。
本名が克由だから小よし。ちょいと芸者風の艶っぽい名前で好きでした。同時期にいた前座はさん助が松本光春で小春。燕路が黒田健之助で小助と。つばめは背が高いので小伸でしたが。志ん生師匠の所で好きな将棋から前座名をつけてました。金助、銀助、桂太、歩太郎と。志ん駒もそうです。文楽師匠は本名から小益、小並、小義って。

当時は落語家自体少ないせいかシンプルな名前が多い。今は前座名からインパクトあることも多い。名前を覚えてもらえるのは得だが芸がまずいとかえってマイナスではないか。難しいところ。

前座修行は小さんの家が狭いこともあって通いだった。当時小さん夫婦に現小さんと長女の喜美、師匠の母で5人。さらに二谷さんという権太楼を一時継いだことのある落語家の弟が大家でいっしょに住んでいたというから6人。これ以上は無理だった。前座時代は

内弟子とそんなに生活は変わりませんでしたがね。用事済ませて出かけるまでの話し相手もない、無為な、白茶けた時間がたまらなく嫌でしたね。つばめはあたしと同輩の弟子ですが内弟子の時期もあったかな。小さん師匠が「あいつは内弟子のくせに俺のガキが何かすると邪険に扱うんだ」みたいなことを言っていた記憶があります、
—つばめさん、元は中学校の教師だから子供には厳しかったんだ。
国学院か何かを出てました。あたしとは全く相容れなかったので却ってぶつかり合うこともなかったです。喧嘩になるのは少しでも何かが重なっている人間同士ですよね。まるで重なるところのない人間同士は気が楽ですね。けして仲良くはならないけども。

談志の人間観が出ている。ぶつかった小さんはじめ多くの芸人とは重なっており、ある意味仲間なのだろう。談志が重ならなかった人間も気になるが。つばめについては

余談ですがあたしがこんなだから、小さん師匠に一番信頼された弟子はつばめだとも言われた。後年、協会の集まりで小さん師匠が「みんな寄席をぬくんじゃねえぞ」って言うから、おれが「一番ぬいてるの師匠じゃねえか」「莫迦おれがいつぬいた、なあつばめ」につばめ平然と「師匠が一番ぬいております」って答えておかしかった。小さん実に変な顔してましたね。そんなこという奴じゃないのにあれは何だったのか。

つばめは小さん門下ながら新作落語で頭角を現した人。真打ちが同時だけに印象が深いのだろう。談志並みに著書もあり才気があったようだが、佐藤栄作の正体という自作噺をテレビで披露し官邸からクレームがついたという。談志は別著で教え子を奥さんにして真面目そうなのにひどい奴だと貶していた記憶もある。しかし師匠といっても直言する性格が小さんに気に入られ、将来幹部格になるのは確実だったようだが46歳で肝硬変で亡くなる。今の落語界で名人格の柳家権太楼ははこの人の弟子だった。存命ならばどんなことになったか。

入門当時落語協会は総勢27人。芸術協会とて似たようなものだった。しかし暇かというと

前座の数は少ないし寄席は多いしで仕事は山のようにありました。市川鈴本、三河島まつみ亭、川崎演芸場、神田立花、千住栗友、横浜相鉄、麻布十番倶楽部。前座が余って「みんなこれ以上弟子を取らないように」と言い出すのは10年以上後になってからです。おれたちがテレビの演芸番組にさんざ出るようになり広告塔になってからですヨ。あたしの頃は楽屋に立前座1人、見習い1人という場合が多かった。まその頃の師匠連に言わせると「おれたちの頃はもっと大変だった。極楽みてえなもんだ」。「前座は師匠の乗った人力車を走って追いかけるもので都電に乗るようになってから修業はなくなった」だって。

いつの時代も今の若いのはとなる。前座としては若いながら器用にこなしていたようだ。2人で打つ二番太鼓も一人で打っていたという。つづく。

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