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談志一代記を読む④師匠の話

前座修行は2年もなく昭和29年に二つ目昇進となった。ただしここで早速ひと騒ぎあったようだ。

18歳の春でした。客観的な年月としては早かったけど、巡り合わせというか時期が良かったんでしょうな。早いなんてことはなくて同輩の小春、小伸といっしょに昇進したんですが、誰が言ったか知らないけど「あいつは生意気だから」とあたしだけ反対されたんですよ。でも文治会長が「同期なんだから一人だけ除け者にしちゃ可哀そうだヨ」と言ってくれて、やっとなれたんだそうです。小さん師匠から「こんなことがあったんだぞ、だからお前は普段から」なんて小言食いましたがネ。

この時から反対されるほど目立っていた。ある意味8代目桂文治は恩人だったようだ。文治については

根岸の文治、口の悪い人は顔の長い文治と呼びました。額見て、鼻見て、顎見たらもう額のこと忘れてるって。「祇園祭」でしられ文句がないというほどの名人とされてきました。小さん師も「面白かったのは三語楼、巧かったのは4代目小さんと、デブの円生、根岸の文治の3人」と評してましたが入った頃は、もう面白くも巧くもなんともないヘンな声と抑揚とでやってました。

確かに桂文治は東京、大阪、京都の言葉を完全に演じ分けられる芸人だったという。さらに人気歌舞伎役者の声色ができる最後の噺家だったらしい。祇園祭は音源が残るがあくの強さというかキンキン声の印象ばかりが強かった。どこか上方のこってりした芸風を感じた。ある意味前時代的だったか。文治については

テクニックだけでやってると、巧いを極めるやり方でいって、技術的に完成してしまうとやりようがなくなっちゃうんでしょうな。ヘンな方向に言っちゃう。

古今東西落語家事典にも邪道に嵌ったなどとその変化を批判されていた。いわば同じことを言っているのだろう。それほど落差が激しかったのか。文治の芸から落語論に移り、

ああいうのは三人称の巧さという事になるけど、そこには自己の感情注入というものがなかったんじゃないかな。そういう芸は下品だと思っていたんでしょうが。
たとえばセリフをしゃべっているとふと演者自身の持ってる言葉というのが出てくる。「この野郎ただじゃおかねえからな。どぶん中へ叩きこんじゃうからな」というセリフがあるとき、演者が感情注入していると「叩き込まれたらおまえさんどうするね」なんて笑うのか凄むのか、自分の言葉が出てくることがあります。あたしなんかはそうです。これは大事なことで、そこから落語が変わってくることもあるんです。こういうことが文治師匠にはなかったんじゃないかな。
そうすると技術を極めた後はもうどうにもやりようがなくなったんじゃないですかね。名人上手がいきつくところまでいくとああなるのかと見てて思いました。ご本人は「俺より下の世代に名人なんかいやしない」というプライドを持ってましたけどね。寄席では受けないし、文楽師匠と上手くいってなくて楽屋でも孤立してたみたいです。

文治という人がそれほど巧かったか残されている音源ではよくわからない。やりようがなくなった後の高座なのか。

後にも語っているが談志の言葉を借りると三人称の巧さは圓生で感情注入タイプは志ん生ということになるだろう。気分に乗って変わるからこそ毎度違う高座と分析できる。 文楽も三人称タイプと言いたいが文楽師は同じ高座ながら新鮮さと躍動感があったといわれる。つまり自分が感情移入できる噺だけを選りすぐった結果があのネタ数の少なさになったのではないか。ほぼ一言一句同じながら感情タイプに分類される稀有な例か。

文治がなくなり会長となったのがその文楽。小言をよく食ったようで

「おい小ゑん、ここに来なさい、こいつはいけません。師匠に向かって『あなたの年になればわかります』なんて口の利き方をするんです」とかね。文楽師匠、楽屋ではあくまで機嫌の良い所を崩しませんでしたがね。あれは「あたしはお前たちとは違います」というプライドの現れでしたかな。

文楽は圓生以上にプライドがあったようだ。というよりも圓生は高座の流暢なイメージと異なり、日常の会話では応対もどこかぎこちなかったと京須偕充氏が振り返っている。そこがある意味魅力だったとも。さらに文楽は圓生を「圓生も良くなってきた。良い時は誉めてやらないと」と頻りに口にしていた時があったという。これも圓生とは違うというプライドの現れなのだろう。


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