前座修行は2年もなく昭和29年に二つ目昇進となった。ただしここで早速ひと騒ぎあったようだ。
この時から反対されるほど目立っていた。ある意味8代目桂文治は恩人だったようだ。文治については
確かに桂文治は東京、大阪、京都の言葉を完全に演じ分けられる芸人だったという。さらに人気歌舞伎役者の声色ができる最後の噺家だったらしい。祇園祭は音源が残るがあくの強さというかキンキン声の印象ばかりが強かった。どこか上方のこってりした芸風を感じた。ある意味前時代的だったか。文治については
古今東西落語家事典にも邪道に嵌ったなどとその変化を批判されていた。いわば同じことを言っているのだろう。それほど落差が激しかったのか。文治の芸から落語論に移り、
文治という人がそれほど巧かったか残されている音源ではよくわからない。やりようがなくなった後の高座なのか。
後にも語っているが談志の言葉を借りると三人称の巧さは圓生で感情注入タイプは志ん生ということになるだろう。気分に乗って変わるからこそ毎度違う高座と分析できる。 文楽も三人称タイプと言いたいが文楽師は同じ高座ながら新鮮さと躍動感があったといわれる。つまり自分が感情移入できる噺だけを選りすぐった結果があのネタ数の少なさになったのではないか。ほぼ一言一句同じながら感情タイプに分類される稀有な例か。
文治がなくなり会長となったのがその文楽。小言をよく食ったようで
文楽は圓生以上にプライドがあったようだ。というよりも圓生は高座の流暢なイメージと異なり、日常の会話では応対もどこかぎこちなかったと京須偕充氏が振り返っている。そこがある意味魅力だったとも。さらに文楽は圓生を「圓生も良くなってきた。良い時は誉めてやらないと」と頻りに口にしていた時があったという。これも圓生とは違うというプライドの現れなのだろう。