談志と小さん。これほど奇妙な師弟もない。談志は小さんであろうと年長者でも構わずこき下ろしていた。普通であればクビものだろうがそれを黙ってニコニコ見ている風情の小さん。莫迦野郎と貶しながら何もかも許している。結果的に落語協会を「破門」の形で立川流を創設したがその後も友人のような師弟は変わらなかったようだ。人間国宝小さんの唯一のおもちゃだったのか。
そもそもなぜ小さんの弟子になったのか。
談志入門時の小さんは30代後半で真打になって5年程、小さん襲名から2年だった。若手では有望株だったようだ。事実昭和28年にTBS(ラジオ東京)が落語家の専属制度を創設の際、文楽、志ん生、圓生とともに専属となっている。実はもう一人、昔々亭桃太郎という柳家金語楼の弟で戦前に東條英機も贔屓だったという人気者もいたのだが、こちらは復員後完全に不遇で終った。それはまた別項で。
ともかく小さんが良いと思った。清潔というのが面白い。それは髪が薄く真打の中では若いというのが大きいだろう。意外と40代半ばまでの小さんは顔も後年の丸型ではなく菱形に近い。また当時弟子がいたのは志ん生文楽程度で小さんには3人程、圓生は未だ弟子がいないという時代だった。落語協会の真打が20人ほどという時代である。
親には反対されたが末広亭に向かった談志。
既に小さんになって2年経っていたがあえて小三治と挙げた。このあたり談志の俯瞰精神、小理屈が既に出ていた。月謝払うより、経済的な負担もかけないという言い回しも並みの高校生ではない。
師匠は火鉢の灰をならしながら
落語家に反対だった母も生活ぶりを見て真面目そうと安心した。ところが前座となると
小さんの小言は長かったようで
小言はいくらでもあり
しかし小さんには嫌な思い出がないと断言している。
そのクヨクヨする思考を持たないの裏返しか後年の脱退騒動につながる。当然小さんの人柄がネックとなったのもあるだろう。つづく。