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談志一代記を読む~生意気~

桂文楽に「小言を申し上げます。小ゑんここに来なさい。こいつはいけません。師匠に向かってあなたの年になればわかりますなんて口の利き方をするんです」とよく小言を食った談志。

生意気だから二つ目にさせないとも言われたが、三木助からはあれだけうまけりゃ生意気でも仕方ねえとも言われたとか。しかし円生はもっと後になって円生なりの比喩的な表現で談志を諫めた。

円生師匠に言われたもん。「おまえさんはネ、確かに芸の力は七や八あるかもしれません。それがおまえが生意気とか評判が悪いとかでだんだん落ちてくるんです。さん助(注:柳家さん助)は芸が三ぐらいかもしれませんが、かわいいとか評判がいいとかってことでも、お前と逆転しちゃうんです。」何言ってやがると思ったね。

しかし談志は談志でひどいもので負けてない。

何言ってやがると思ったね。仲間内の評判と芸は全然別の事であって、観客の前に出してみろ、どっちが受けるんだと。円生師匠に「師匠、師匠は若い頃は売れなくて、いわば最近になって売れてきましたよね。俺は最初からグワーと売れてここまで来ている。グラフにすると面積は俺の方がはるかに多いですヨ」とか乱暴なこと言った記憶あります。円生師匠は「お前さんネ、死ぬ間際が人間てえのは大事なんだ。芸人だって終わり良ければすべて良し」なんて言ってたけどね。

本当に言ったのか定かでないが談志であればあり得るのだろう。もっとも円生師は亡くなる1年前に落語協会脱退し新団体設立、目論見が外れ円生が看板となって休みなく高座を務めたが、高齢の身にこたえたか急死した。ある意味死ぬ間際まで全盛期を保ったが、地方巡業が多くなったことで芸の質は落ちたともいわれる。談志は圓生の代演も務めたがスケジュールがびっしり詰まっていて驚いたという。

さらに前座名についても

∸ 前座名の小よしは気に入っていたと伺いましたが、小ゑんに決める時何か希望が言えたのですか。
言えない言えない。師匠がつけたんだから。志ん馬になった志ん吉は二つ目が馬太郎だったんだけど物凄く嫌がってました。いい名前じゃないね。明石家さんまが「今に日本一のさんまになってやろう」と決めたっていうけど、決めようがねえよね。
∸ 師匠に逆らえない世界だから諦めるしかない。
馬太郎、馬さんと呼ばせないんだ。太郎さんと呼ばせてたね。
∸ 小ゑんは気に入ってなかった?
小ゑんで売れて10年近くやってましたから、いい名前となりましたかね。小団治なんて名前の方がいいなと思ってました。あたしはいかにも噺家って名前が嫌だったんです。歌舞伎の方でもあるんじゃないかな。仁左衛門という名前嫌じゃないかな。吉右衛門も。

名前は下手すると芸人の活動の場を狭めるとも。真打になるときは「つばめ」を断ったようだ。最近は亭号もオリジナルの芸人が増えた。ありきたりな名前より記憶されるだろうが… 逆らえない世界とあるがやはり閉鎖的な面が今回の訴訟につながったのだろう。芸名をめぐってもいろいろあるのだろう。

徳川夢声だの松井翠声といったような名前にしたかったんです。立川談志。先代がつい先年まで生きていたせいもあって「そんな年寄りのイメージする名前」なんて言われましたが、いい名前じゃないですか。自分がそうだったから、弟子には本人の嫌がる名前はつけないようにしています。

何かと傍若無人さが目立つ立川流だが、談志は自分の嫌なことは弟子にさせなかったという。口は悪いが手は出さないとは弟子の評。夜に用事を言いつけるといったこともせず、割り合い自由があったとか。お前たちは使用人ではないといい、家族が用に使わせることも許さなかった。

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