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明治の相撲~名跡の謎・立田山~

年寄名跡のこと。江戸の勧進相撲の頃より連綿と受け継がれてきたものが多いが、細かくみると時代ごとで創設され、明治期になって急激に増えた。この頃創設された名跡には陸奥、峰崎、立浪、鏡山、荒汐、尾車などがあるが、そのうちのいくつかは1世紀以上前の名跡の復活であると分かっている。

ただある程度資料が揃った明治以降でも、襲名廃業等に不明確な点は多い。このうち明治34年に亡くなった年寄立田山は謎めいた土俵歴を残している。この立田山は力士としては江戸時代の人だが年寄のほとんどの期間を明治期に過ごしている。雑誌相撲の「年寄名跡の代々」などを参考に見てみたい。

立田山は4代目と推定され、5代目関の戸の弟子の三段目力士の藤川といわれる。明治23年の名簿より文政12年12月生まれ、弘化4年に陣中で序ノ口に出て、いったん消えた後嘉永3年11月に藤颪で再登場、嘉永6年に藤川となった。しかし翌年限りで名前が消える。安政4年に藤川で登場。直前の12月には関ノ戸が亡くなっており何らかの関係があるようだ。師匠と不仲だったのか。安政4年11月に立田川となり年寄兼務、これも若干不思議な点もあるが雷門下に移り雷に気に入られたことが大きいとされる。しかし安政6年1月の番付発表後に名跡返上し、先代の名乗りである立ケ島に改名。残されている資料はないが先代遺族との何らかのトラブルがあったようだ。改名直前には師匠の雷が亡くなっており関連はあるのだろう。古今東西襲名のトラブルは多い。

立ケ島で3年の後、文久2年2月中に再度立田山となる。ここでひとまずトラブルは解決したようだ。立田山のまま慶応3年11月に引退となる。

この立田山は出身地にも疑問があり、序ノ口より前の巡業番付にセンダイとあるが、慶応3年の巡業番付には新庄とある。「年寄名跡の代々」ではこの謎について山形出身であるが仙台近郊の土地相撲の集団などに属していた可能性があるとしている。同様の例は他にもあり、当時は抱えの風習も残っていたか後援関係の土地を頭書とする力士も見られた。現在でも生まれ育った土地ではなく両親などゆかりのある土地に出身地を登録している場合がある。必ずしも生まれ育った出身とは限らないようだ。

その立田山、引退後の動向が不明であった。突如4年後の明治4年に碇引改立田山と名前がある巡業番付が存在する。本場所の勝負付けでは明治3年11月に幕下の番付外に出て、翌場所の34枚目で引退している力士。しかしこの力士が明治30年代まで在籍の立田山と同一とすると、文政12年生まれで当時40歳を超え、たった2場所の出場で年寄となるのは当時でも不自然。さらに引退順に記される年寄連名では慶応3.11引退の待乳山(常葉山)、慶応4.6引退の若松(玉川)の間であり慶応3年頃ということがわかる。慶応3年限りで消えた立田山と同じ頃である。

種々の事柄を合わせると慶応3年に引退した立田山が何故か現役に戻って再度引退というのが一番確実な推定という。安政4年、文久2年、明治4年と実に3回も襲名したこととなる。この背景には遺族や兄弟弟子などとのトラブルが重なったことが大きいと推測される。もちろん碇引は誰かの改名など、別人という説もあり得るだろう。

明治33年発行の上司小剣著「相撲と芝居」には年寄連名があり、田子ノ浦、佐ノ山ら二枚鑑札の長かった年寄は現役名の部分も年寄名である。立田山の場合、現役名が分からなくなっていた可能性も高いのは残念である。

「相撲と芝居」より。番付に年寄全員が記載されない時代の連名は貴重である

立田山は当時の年寄長老格で明治34年に数えの73歳で亡くなった。当時の新聞記事にも「何と名乗っていたか今の雷さえ記憶して居らぬ」とあり、資料のない当時、長老親方の現役時代はもはや消えかけていたのだろう。ちなみに墓所も不明でありそのなぞは深い。

藤川→立田山→立ケ島→立田山→碇引→立田山と謎の土俵歴を残した立田山。今後も資料発掘を望みたい。


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