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昭和初期の相撲界

昭和2年は双葉山が大相撲に入門した年。この年は相撲界にとって劇的だった。大改革を行ったのである。この頃に制定された規則が現在まで続いてる訳で近代相撲を確立させたといってよいだろう。まず東京と大阪と2つあった相撲組織が1月より合併して東京だけになった。大正から昭和初めにかけて第一次世界大戦の戦後不況に陥り、さらに大正12年の関東大震災で経済が混乱と不景気の底だった。あおりを食った相撲も不入りで東京はまだ良かったが、大阪に至っては紛擾(竜神事件)による脱退もあって東西の幕内力士も揃えるのに苦労し、片番付の場所もあるなどいまにも消滅しそうな状況だった。

当時の大阪はいい力士がいない。有望力士がいても稽古もままならず宿舎も転々とするようでは、早々に東京に移籍してしまうのも無理ない。経営にヤクザが介入するといった状況で解散か合併しか道がなかった。しかし東京も経営状況が良いと言えず大阪相撲を合併するのは不良債権を抱えるようなもの。ただ見殺しにするのも忍びないという状況だった。

その頃摂政宮殿下(のち昭和天皇)の台覧相撲があり御下賜金が出た。これを意義あるように使いたいと優勝杯を作るという案を出し了承された。これが天皇賜杯である。この時も新聞社から相撲にはどうかという批判もあって一悶着を起こした。

賜杯制定でも批判を起こしたこともあって東京だけではなく大阪にもという口実ができ、合併の動きは急速に進んだ。以前から合併の話はあったが大阪側にも江戸から連綿と続いてきたというプライド(一時は京阪の方が主力の事もあった)があって話は捗らなかったのだ。

合併するのは力士、年寄、行司が主である。その他呼出、若者頭も加入した。問題なのは力士である。大阪方にも横綱や大関がいる。ほかにも幕内十両の力士を同地位で受け入れるのがふさわしいかという議論になった。

大阪方は東京と比較しかなり実力が落ちるとみられていた。これは明治中期以降に顕著となり、合併相撲での対戦は大阪方が大敗することがほとんどとなっていたためである。そこで実力を審査する合併相撲を3度開催した。予想通り大阪方は大敗し、実力を知って廃業する力士も出た。互角に渡り合ったのは真鶴ぐらいで3回目の時点で大阪方の幕内力士で東京に残ったのは6人という体たらくだった。 新聞上で「聯盟とは羊頭狗肉。実質は東京相撲の巡業」と批判されるほどで営業成績も低かった。


大阪には横綱宮城山もいた。横綱は吉田司家の公認であることもあって降格はできず、合併相撲では小結程度と判定されたがそのまま加入した。大関以下は実力に見合った地位に据え置かれた。結果大関の荒熊や錦城山は平幕、若木戸は幕下となった。つづく。


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