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倫理観を捨てるとインターネットではクソほど儲かる

記事のテーマを洗い出すのに「お金」についてちょっとリーサチしてたらどっかで聞いたことがあるフレーズが出てきて「お金は信用を数値化した物」なんて言葉が出てた。発信元を見たらどうやら堀江貴文氏が過去に発言した内容のようだが、さすが影響力が凄いですね。

この言葉を他のビジネスマンが、さも自分の言葉かのように語り自身の権威付けに利用しポジショントークをしてる姿は少し滑稽に感じてしまうところもある。

というのも、「お金は信用を数値化した物」と聞くと多くの方は真面目で誠実で健全なビジネスを思い浮かべるのが大多数だとおもう。自身もそれが限りなく正解に近いと思うのだが、ビジネスシーンにおいて必ずしも真面目で誠実でなければ成功出来ないという事ではない。

世の中にはグレーな商売、ブラックな商売が沢山ありそこで大金をつかんでる人間は沢山いる。

例えば、少し前に話題になった「漫画村」なんてまさにそうだろう。
海賊版サイトで莫大な広告収益を得た訳だが、彼らが真面目で誠実で社会規範に沿って大金をつかんだわけではない。事実、裁判では有罪となった訳だが、賠償金は数千万だったが仮に数億円の収益を上げていてその資金を逃がしていたとしたらどうだろう。サラリーマンが一生で稼げる額以上の金額を数年で稼ぎ実刑を食らっても手元には数億残していたのなら数年拘束されようが勝ちは勝ちなのだ。

FC2の創業者も数年前に問題になったが今ではドバイで生活してるセレブだ。つまり「お金は信用を数値化した物」とはいえ、それが必ずしも真面目で誠実で社会的モラルに沿ったものでなければならないという訳でもないことの証明である。

商売の基本は需要と供給で成り立っていることは誰しもが想像つくと思うが漫画村もFC2も需要があるからこそ莫大な利益を生んだ。インターネットで金を稼ぐという事だけにフォーカスするなら倫理観を捨てたらクソほど儲かるのが実情である。

逆にその失敗例はこれだ。ここでも少し話したが、pixivから画像をぶっこぬいてAIに学習させて大量コンテンツを作ろうとうとしていた子のことだが、この事例は倫理観を捨てるなら承認欲求も一緒に捨てて黙ってやっとけばこんなに問題になることも無かったのだ。そこらへんのやり方があまりにもヘタクソだったんだ。一般的な倫理観から逸脱していることは大抵の人間なら余程のバカじゃない限りは解っててやってるはずだ。それでも失敗するのは中途半端に承認欲求を捨てきれないでいるから失敗するのである。犯罪者が自分の痕跡をわざと残す心理と同じで、やるならもっと上手くやれという話だ。

炎上商法や迷惑系ユーチューバーが人気が出る根底もここにある。インターネットでは一般的な常識から逸脱したやつはアクセスを集めることができる。変わったやつは無名のそれよりも影響力がありインターネット上ではアクセスが集められるイコール稼げるという図式が成り立つので結果的に儲かるのである。

まさに「悪名は無名に勝る」そのものだ。

よって「倫理観を捨てるとインターネット上ではクソほど儲かる」は成立するという事で間違いない。しかし、これをやるにしても忘れてはいけないことは以下のこれだ。

日本のフィクサーと呼ばれた男、安岡正篤が残した言葉
「有目無力 無名有力」
まさにこれである。

pixivの件も無名に徹していたら裏でもっと莫大な利益を得られたのではないだろうか。

今の社会ではインフルエンサーなど個人が影響力を持つことができ、そうした影響力は様々な場面で有利にことを運ぶための一つの要素になるが、その弊害として有名税が課せられ足かせになる。この上を行こうとするのなら無名でいることに徹する方が絶対的に利口なのである。

ただし、一般的な所謂普通の人間が無名でそこまで上り詰めようとするのは並大抵の努力ではかなわない。最終的なゴールがどこにあるかで歩み方も変わるがそれを踏まえたうえでどう動くか、それが大切だ。

倫理観を捨てて一時の地位や名声、利益を得られたとしても倫理観から逸脱したやり方で目立ってしまうやり方は敵を増やし、そこから結果的に足元をすくわれるのである。いつの世も目立つ奴は嫉妬や妬みを買い足元をすくわれるのである。しかし無名を貫き誰が犯人かもわからなければどうだ、たとえ倫理観から逸脱していようが本人にはダメージが全く無いのだ。

これと似たようなことで判りやすい例は話として、やくざの大親分が「話の分かる人」とか「大物はこんなことしない」といったように下っ端のチンピラよりちょっと印象が良かったりするのは彼らは完全な体育会系縦社会だから汚れ仕事は下の若い衆にやらせて自分は手を汚さないからだ。だがその大物もそこに行きつくまでには相当な修羅場をくぐり手を汚してきたからその地位にいることを忘れてはならない。下がもめ事を起こし上が仲裁する構図は相手と交渉する場面において精神的な優位に立つ為の定石をやっているにほかならず、法を犯すこともいとわないという驚異と圧力がさらにこれを可能にしているという事だ。これは命令がなくともこの定石が発動される。非常に理にかなった文化でうまくできていた。過去形なのはこの効力が法改正などで薄まったからである。この手の話は、ここではこれ以上触れないが表も裏も「表裏一体」でありこうも印象が違うのかとわかりやすい事例だろう。

このように裏で手を回してる人間はたくさんいるし、そういうやり方をしている人間も世の中にはいるという事を忘れてはならない。ここまで行くと、ぱっと見だけでは一般的な倫理感なんてものだけでは推し測ることは出来ないのである。


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