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見返りを求めないのがなぜ美徳になるのか

 極端な話、死んだら名声が得られるとしても、だれも死を選ばないだろうと思う。死ぬなら、天国で幸せに暮らせられればいいが、そんな保障はない。現実的にいえば、働いたらその分お金がもらえる。もらえなかったら不満。お金を払えば相当のサービスが得られる。コスパが悪いと不満。話を聞いてやったから、おれの話を聞かなければ、不満。
 このように、ある行為に見返りを求めるのはどうしてだろうか。資本主義ゆえか。しかし資本主義をよく知らない。人間、ひいては動物の習性のためなのかも、実際、僕には全く分からない。では、反対に、見返りを求めないことが美徳されるのも、どうしてだろうか、と考えてみたい。実際に、僕はその態度には憧れがある。
 ボランティアに行った。偉いと言われることに違和感を感じつつ、復興の兆しがなかなか見えない町並みに悶々としていた。現地では、飲み物や炊き出しでご飯を頂いた。働いているのだから当然だ、と思う自分を認めつつ、しかし、謙虚な姿勢で頂いた。助ける人に食べ物をいただくのはどうか、ボランティアなのに見返りを求めているのはおかしなことか。見返りを求めることは恥ずへきことなのか。やはり何とも言えない感じがして困った。

 「家の外で他人に逢(あ)うときは、その人を自分にとって何よりも大事なお客のように扱わなければならない。人民を公役に使うときには、祭りを執り行うときのように慎み深くしなければならない。自分が他人からしてもらいたくないことは、他人にもしてはならない。そうすれば国の中枢にいても人に恨まれることはなく、家庭にあっても人に恨まれることはない。」以下のページから引用した。

「他の誰からの命令を受けたわけでもなく、また見返りを求めることでもなく、ただそうあるべきだと自ら行うことこそが道徳的であり、人としてあるべき姿だ」というのが、カントの導き出した“道徳”の結論となるのです。以下のページから引用した。

 論語やカントが提唱した道徳からヒントが得られそうだ。どの資料も、僕の高校までの知識によって調べられたものに過ぎず、まだまだ、核心を突く最適解は得られていない。
 見返りを求めないことが、なぜ美しいのか。この考え方の本質に迫りたい。

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