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縦社会と経験論

 高校受験を終えて早一年。一人暮らしにもってきた教科書は勉強を続けようとする決意の表れだろう。しかし、全くしていない。せっかく勉強したこともあのとき勉強したのものまま、全く生かされていないのではと、各記事に関連することもしないことも触れていきたいと思う。
 学校の勉強は社会に出て復習してこそ、その真意が問われるのだ。そう信じて、今日は、倫理の「経験論」を復習する。


 経験論とは…

  近代自然科学がキリスト教との複雑な絡み合いの中で成長を遂げているなか、イギリスのベーコンとフランスのデカルトが主となってあらなた学問を築き上げようとしていた。
 経験論はベーコンの思考に基づいている。

 ベーコンはスコラ哲学を空虚だと批判した。スコラ哲学とは中世の教会や修道院の学校などで説かれた、ギリシャ哲学によってキリスト教を擁護する神学に仕える哲学である。ベーコン曰く、実用的でないという。

 学問は自然を見つめることで始まるという。それもイドラ(先入見)を排除しなければいけない。種族のイドラ、人間であるが故もちあわせつ不安定な感情による偏見、洞窟のイドラ、性格や教育の環境による偏見、市場のイドラ、人間関係によって植え付けられた偏見、劇場のイドラ、伝統的な学説による偏見を排除する必要がある。
 排除した後は物事を帰納法で考察するべきという。帰納法とは様々な事象をもとに一般法則を導き出すものであり、自分の目や耳でとらえたこと、つまり経験を土台とする考え方である。これが経験論のもとになるベーコンの考え方であり、以降近代の科学的思考の形成に大きな役割を果たした。

 ベーコンと対比されるのがフランスのデカルトである。かれは合理論の先駆てきな哲学者で演繹法を取り入れた。


 このように学校の勉強の復習をかねて文章を書くつもりである。

本題

 さて、今回考察するのは、縦社会と経験論の関係である。ここでいう経験論は哲学上の意味はなく、単に人間の価値を経験で測ろうとする考え方である。今回のみ用いるつもりである。

 僕の苦手なことのひとつである、先輩後輩などという関係。社会にでると当然のようにあるこのシステムは現代社会のかなめである。無くそうものなら、そこに居座っていただけの長老が権威を失うことを恐れて暴れだすに違いない。少子高齢化で若者が政治に興味を持っても彼らに勝ち目はない。たとえ立ち上がっても、その動きに反する高齢者優先の政策が掲げられる。これから生きる若者のために早く席を譲ってくれないかと思う次第だ。

 もっと小さなコミュニティで考えてみたい。その特徴が顕著に表れる場所は部活動である。小学校までは年齢関係なく楽しくスポーツをして、芸術に触れていたのに、中学校以降、部活動となると急に表れる先輩後輩、そして敬語。小学校とそれ以降の活動に違いをどうしても見出せない。そしてその環境を否定的に思う人もいれば、また肯定的に捉える人もいる。前者は僕のような人で、後者はそこに威厳を見出す人である。
 それはどういうことなのか、経験論と交えて考察する。

 威張る人の心理は単純である。自分の優位性を示すために、特定の集団の中で経験という権威にすがって闊歩しているだけである。
 部活でたとえるなら、入部して間もない人と3年たつ人がその3年間というの経験の差によって比較され、上下を決められている状況をいう。入っても間もない人からすればその3年間はどうしようもないものであるから、その経験を有する者は教える義務を負べきなのだが、それはしばしば権威を授かるものだと勘違いする人がいる。権威は集団を率いるのには有効だが、過多に寄ると集団に隔たりを築きかねない。そしてその権威を尊重するあまり、下からは称えられるようになる。単純に年長であることや、先にカリキュラムを達成しただけの人間を崇める、妙な集団が出来上がるのだ。それが年功序列を助長しているとは言うまでもない。

 どの人間も等しくものをいう権限があれば熱い議論がなされ、良くなるも悪くなるもその集団次第だが、活発な集団になるに違いない。それよりシステムや規則に準拠した型の中で、尚且つ、経験によって人間の価値を測る集団を選ぶのだから、日本は妙である。

 社会問題の原因を探れば教育に帰着すると考えるから、部活という奇妙なシステムは社会に負の影響を与えているに違いないと思うわけだ。しかし、中学校高校と部活に所属していた身として、常にそのようなマイナスのイメージを持っていたわけではない。楽しく活動していくなかで、おや、と思うことが多々あった程度である。このことも踏まえて部活のことも考えていきたい。

 

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