傘を日々持ち帰る。
雨は好きでも嫌いでもなく、ただ、止んでしまったときはなんだか不安になる。なぜなら、傘を置き忘れるから。どんなに意識しても、だ。いままで何本もの傘を置き忘れてきた。
ある日、雨がダーダー降っていたが、講義室を出る頃には止んでいた。外から流入する湿気と人々の熱気が出口に立ち込めていた。雨の上がった異様な雰囲気に気を取られ、傘を忘れそうになりなったが、先行く人に導かれるように傘を取った。
図書館で新聞に目を通し、横山光輝「三国志」を読んで、新書や英語の本や専門書なんかを物色して満足すると、傘なんてすっかり忘れていた。帰り支度をしているときに、傘を持ち歩く婦人をみて思い出す。持って帰ることを忘れないようにと、もう一人の僕が言った。それを素直に聞いて持ったものの、ほんの数分後には知人宅に忘れて帰っていた。思い出した頃には、空の傘立てに手をかけ、しまったとため息を付くのみ。
今もどこかで僕を待っている。ささなければ手に余るが、でも可哀想なことをした。阿弥陀にして空を伺うことも傘がなくては虚空を眺めるのみ。申し訳無さが募る。
次の日、買い物がてら散歩にでた。知人宅に置いた傘をサッと取って買い物して帰る。適当に立てかけたら絶対に忘れると、いつもと違うところに置いておいた。店を出る寸前で思い出した。最善策とは言えず、危うく忘れて帰るとこだった。どうすれば忘れずに済むか、考えなければと思っていて、未だに頭を抱えている。それもそのはず、その後ドラッグストアに置いて帰ったからだ。柔軟剤を洗剤と間違えて2ヶ月くらい使っていたことを思いだし、そっちに注意を奪われていた。しまった。せっかくやることリストを全部消化したのに、スッキリしない。傘よ、いい加減、歩いて帰ってきたらどうだい。いかん、自分への憤りを傘にぶつけるとは無能もいいところだ。明日、迎えに行かねば。次は途中のコンビニまで進むか、それもと帰ってこれるか。持ち歩いては、講義室に忘れてゆくのだけは勘弁だ。絶対に持って帰る。
晴れた日に図書館で見覚えのある傘をみかけて、おやと思った。USJの雨の日にしか出ない傘だった。そうして未だにドラッグストアに傘を置きっぱなしにしていることを思い出す。あれから幾らか日が経った。あんなに意気込んだのに、快晴が続いたもんで傘など気にもとめなかった。夜、勉強の疲れをいやすためにコーヒーゼリーを買い求め、傘はというと、無かった。レジも忙しそうで聞いてみることはしなかった。外には、無惨にもビニールが剥げ骨組みがむき出しになった傘が蜘蛛の巣を絡めて横たわっていた。しかし、僕の傘はなかった。必要に駆られた誰かが持っていったのならまだしも、捨てられたとなれば、この大量生産大量消費の物質主義を憎まずにはおけない。いいや、置いていった僕がわるいのだ。また次の雨に備え、買う。やるせない気持ちで梅雨を迎えた。
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