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アートと生きる

 僕は自分が他者の考えの受け売りでできていることを知っていながら、さも自分が生み出したかのように思索して語りだす、その性格が嫌だ。しかし、人間が、無から何かを生み出すことはできるのだろうか、とも思う。それは芸術家の所業だ。僕は、それから、程遠く、俗的でまだまだ成熟していないと思う。
 旅を振り返って、復興について考えていると、アイデアが浮かんだ。津波を恐れて築き上げた無機質な防波堤。それにカラフルな絵を描けば面白いかもしれない。そう教授に言うと、「おれは何にでも絵を描けばいいと思うことに懐疑的なのね。」と言い返された。なるほど。僕は単純な発想を恥じた。無機質を無機質のままで受け入れらるアイデアこそが斬新なのだ。しかし、絵を描くだけでなく、絵を描かないことで成る芸術とはなんだろう。「アート×町おこし」というテーマを思い起こすが、それはどういう位置づけなのだろうか。と、知りたいことが多くて多くて、ずっと大学生をやっていたい気持ちだ。残された時間を余さず生活しようと思った。
 人の話が聞けないみたいに、歌詞を捉えつつ聴くのが難しい。思えば僕は音楽をしっかり聴くことがない。これはかえって良い。なんとくなく聴いていた曲の歌詞がすっと頭に入ってきたとき、とても気持ちがいいからだ。生活のBGMでしかなかった音楽に、一瞬の注意が向いて、その情景にトリップする。
 「まるで私が聞き分けの悪い赤子のようにぎゅっと」(カネコアヤノ「抱擁」)
 母親が聞き分けの悪い赤子を抱きしめる様子が、見える。母親が、寝ている息子の泣きはらした目を見ている様子に変化しつつ、見える。その様子から、ユージン・スミスの水俣の写真が思い出された。儚くて美しい。次第に悲しい感情が押し寄せる。決壊する寸前に、我に返って、また動き出す。音楽も生活に溶け込む。こんなことの繰り返し。
 

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