ひとことはなし37

2021年3月21日

先日、ご近所で葬儀がありました。もちろん仏式の葬儀でした。

そのお宅には、故人が休む部屋の頭上に神棚がありましたが、仏様になった故人がお宅に帰ると、その神棚に、半紙を貼り付けて封印?するのだとご近所の方に聞きました。


これは仏教の風習だと思います。意味は存じ上げないので何とも言えませんが、そこには意味があるのでしょうね。

話はそれではなく、仏教の教えには「人間は一代限り。この世は苦の娑婆」
と説いたと聞きます。
生きるこの世は苦の娑婆だから、現生はあきらめなさい。しかし、「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱えれば、死んだ「あの世」で極楽浄土へ仏様が導いてくださる、と、簡単に言えばそういう教えでしょうか。

仏教が日本に伝来した時代は、男の頭はちょんまげ。刀をぶら下げている、そんな時代でした。武士は頭をいただきその配下となり、領地の取り合いをしていた時代でしたから、他人も親子も殺しあう時代でした。

そんな時代に
「人をたすけよ」
と説いて通用しません。逆にそんな時代だからこそ、仏教の教えが当時の日本人の精神機構にはとても斬新で新鮮な教えだった。なので受け入れられ、その内、日本の各所に土着したのではと。

話は葬儀に戻しますが、教えのまま、今現在も仏教の習わしに乗っ取って、葬儀は執り行われていますね。
何が言いたいのか、と言えば、おやさまの教えの凄さを僕は思うのです。

仏教の教えでは「人間は一代限り。現生は苦の娑婆」死んだあの世に極楽浄土があり、そこで楽しみに暮らせるのだ、と説いておりますから、人は生きている間は辛く苦しいのだと説きました。

しかしおやさまは、人間の魂は生き通し。今生積んだ徳と因縁が魂につき、それにふさわしい両親の元へ生み出され、親子となり因縁と恩の報じあいをする、と教えて頂いております。
つまり、この世からこの世に帰る。なので、死ぬのではなく出直しなのです。
死んで無くなる事は絶対にないのだと。姿は見えねど理がのこる。

僕はこの教えを疑いなく信じている、と言うか、それは確信で、信じるという次元ではないのです。実例があります。

ところが、おやさまに、出直し、という事を教えて頂いてなければどうか。
想像ができませんが、やはり現生は辛いもの、とあきらめ、死ねば極楽にいける、と思うのでしょうか。

おやさまは「ここはこの世の極楽や わしも早々まいりたい」と仰せになった事も凄いことですよね。

間違ってほしくないのですが、僕は仏様の教えをどうこうと言いたいのではありません。
ただ、おやさまの教えは、親神様の教えですから間違いはないのです。

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