自由と不自由の間

東京に住んでいる友人が以前「東京に住んでいる方が選択肢が多い。お店一つにしても、多くの選択肢の中から自分に合ったものを選べることが東京に住むメリットだ。」と言っていました。一見合理的だと思われる意見ですが、少し違和感を覚えました。
例えば、東京にはレストランが1000店舗あったとして、そのすべてを吟味する時間とエネルギーなどあるんでしょうか。

日常生活において、仕事だったり、家事だったり、他の用事だったり、レストラン選び以外のことに費やす時間とエネルギーも当然必要なわけで、全てのリソースをレストラン選びに使えるわけではないでしょう。
物理的な制約上、50店舗しか吟味出来ないのであれば、選択肢が1000店舗ある状況は、選択肢が100店舗しかない状況に比べて優位性はないのではないか。

確かに、1000店舗の中から選ぶ場合と100店舗の中から選ぶ場合では、前者の方が自分の好みに近いお店が見つかる確率は高くなるかもしれない。
でも、選択肢が多い分、そのお店を探し出すまでに多大な時間がかかるでしょうし、そもそも少しでも自分の好みに近いものを見つけたいという強いこだわりがあるものって、そんなにたくさんありますか。

コンビニに行けば、ビールだってコーヒーだってお茶だって、あんなに多くの銘柄があるけれども、みんなが手に取っているものって、その全てを吟味して納得したものなんでしょうか。多分そうではないでしょう。

全ての銘柄を試飲して、自分の好みに最も近いものを吟味して…なんてやっている暇は多くの人にはないでしょうし、そんなことをするとみんな疲弊してしまう。

同じことが、自分の人生においても言えるのではないかということに最近気が付いたんです。
以前は、時間とお金が無限にあればやりたいことを全てできると思っていました。でも、多分そうじゃないと思う。
もしお金と時間が無限にあったら、自分はやりたいことを、全て納得するレベルまで実現しようとして疲弊してしまうと思う。

時間とお金に制約があるから、人は何かをあるところで切り上げたり、諦めたり、本当に大事なものとそうでないものの切り分けをする。
それが結局、無限の選択肢を吟味して判断するという途方もない作業から人を守っているのかもしれない。

子供のころは、好きな事だけができたらどんなに良いだろうって思っていました。
でも大人になった今、好きな事じゃないけど「用事がある」ってありがたいことなんだと思うようになりました。
もちろん、内容や量によりますけどね。
あんまり合わないことをずっとやり続けていると、それはそれで精神を病みます。

なんでも選べるという「自由」。
全部は選べないという「不自由」。
このバランスが、生きていくうえで重要なのかもしれません。

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