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いとこたちとの東北旅行(2)

「いとこたちとの東北旅行(1)」の続き 
 私たちの母方の祖父母は、一族郎党を連れて、岩手県気仙郡住田町から北海道の伊達に移住した。祖父母の名前は平四郎とナツという。伊達で二人の間には十二人の子どもたちが生まれた。母の上にはたくさんの兄と姉がいた。
 平四郎とナツが伊達でどのようにして生きたのか、いつどんなふうにして亡くなったのか、語ってくれる人は誰もいない。
 私は、新潟の父方の祖父母の家で、両親と姉と一緒に暮らしていたが、母方の祖父母のことは何も知らない。恐らく早い時期に亡くなったのだろうと想像はしていたが、母に直接聞くことはなぜか憚られた。
 母が生前時折口にしていたのは、「伊達」「有珠山」「こうたろう兄さん」「あねま」「貧乏なおじさん」。
 「あねま」というのは、一緒に旅行したいとこたちの母、Nおばさんである。享年百二歳で昨年亡くなった。母がほとんど唯一の肉親として慕っていた人である。
 NおばさんはKおじさんと伊達の近所で育ち、長じて結婚した。時は戦時下である。二人はまだ幼かった長男と次男を連れて満州に渡った。その前年、一年ばかり室蘭に住んでいたそうだが、「室蘭」という地名が脈絡なくつぶやかれるばかりで、一体何のために行ったのか、誰も知らない。
 満州から引き揚げてきたとき、長男は四歳か五歳だった。次男は引き揚げの途中で死んでしまった。その長男がいとこたちの兄であるが、何年か前に亡くなってしまった。「兄ちゃん」と呼ばれていた人である。「兄ちゃん」ももはや何も語ってくれない。
 いとこがもっていた戸籍を見ると、母は大正十一年生まれとなっている。生前、常々、自分は大正十四年生まれだから昭和一年なんだと主張していたが、どういうことだろう?父よりも四つ上だったので、少しでも若くみせたいという気持ちがあっただろうことは想像できるが、生れ年をごまかすなんてことができるのだろうか?
 母が亡くなったとき、いろいろ書類を書いたはずだが、大正十四年と信じきっていたので、特に疑うこともなかった。それで役所を通ったのだろうか?謎である。
 ところで、住田町というのはなかなか良い町だった。林業が栄えているのだろうか。役場の庁舎は、スギとカラマツを使った木造建築である。大きな梁が特徴だ。全国から視察に押し寄せるほど、注目を浴びている庁舎だそうである。
 どの家も新しく、庭もきれいに整えられていた。遠野物語の世界観に浸りきっていたY子は、きれいな家を見るたびに、「ここにも座敷わらしが来たんだね」と言っていた。座敷わらしって、大勢いるんだ。
 こんなステキな町が祖父母の出身地だということを知っただけで、うれしかった。母も連れてきたかった。多分、一度も来たことないだろう。言ってくれれば連れてくることできたのに、何にも言わないんだもん。
 M子が戸籍謄本とってくれたのよ。
 帰り道、前の晩のテレビ番組で、五木ひろしと八代亜紀が歌っていた「うしろ姿」という歌が気に入った、という話をすると、M子が「あ、あれね」と言いながら、CDを取りだした。藤圭子のカバーアルバムのなかに、「うしろ姿」が入っているという。
 藤圭子は何を歌わせても、悲しげでいいね~と、皆、意見を一致させた。「印税は誰に入るの?」というY子の質問に、Yが答えたのは、「全部、宇多田ヒカル」。印税、税金、固定資産税も、私たち(特に私)にとって興味ある話題である。それはまたのちほど。(続く)

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