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伊東俊太郎「一語の辞典 自然」三省堂


現在、我々が使っている自然という言葉。これがどのような経緯で日本にはいって来たのか。あらゆる角度から検証している。

まずこの概念の語源から考えると、ギリシャ語の「ピュシス」にぶちあたる。意味は「はえる、生長する、生成する、生成した後の状態」といった意味になるらしい。

この「ピュシス」は古代ギリシャでひろく使われた。ヒポクラテスは自然治癒力に使用し、アリストテレスの「自分自身の中に運動の原理をもつもの」という意味に収斂されていく。

一方、アラビアにおける自然は「タピーア」という語彙で表されるが、これは「神の刻印」という意味の言葉だ。ここでは神と一体ではない被造物としての自然として定義されている。

古代ギリシャでの「自然」は神や人間をもそのうちに包み込んだ一つの統一体としており、それがヘレニズム時代の哲学、ストア哲学にあらわれている。「ピュシス」はローマ時代にはいると、「ナートゥーラ」という言葉で引き継がれ、当初は同等の意味で扱われるが、近代西欧の自然観が築かれる17世紀科学革命の時代に変化がおこる。デカルトの「機械論的自然像」とベイコンの「自然支配の理念」である。ここで、神や生命といったものが抜け落ち、自然=延長物体・思惟という解釈が広まっていく。そして人間が自然を支配するという思考が生またというわけだ。

自然という漢字は中国から来たものであるが、本来の中国での意味とは差がある。老子のいう自然は「人為の加わらない、自ずからある状態」を示し、自然物についての意味は含まれていない。現在日本と同じ用法になっている自然は日本からの輸出語彙なのだ。これを毛沢東も著作「実践論」の中で多用している。

日本に自然という漢字が来たとき、専ら「おのずから」という意味で使われた。仏教到来にあわせ、呉音の影響で「じねん」という読み方が定着した。その後親鸞が「おのずから然らしむ」と絶対他力の境地を仏に任せるという意味に解釈しその意味的な広がりを与えた。

その後江戸儒学において漢音「しぜん」が採用され、最終的に安藤昌益が宇宙全体の生命システムの中の「ネイチャー」としての自然を認識し、「人間がコントロールできない畏怖の存在」としての自然を定着させていく。決定的な役割を果たしたのは森鴎外と巌本善治の「自然と文学美術に関する論争」だったそうだ。この課程を経て「ネイチャー」としての自然が日本に定着した。

こうしてみると広辞苑にしるされているあらゆる意味記述にはちゃんとした背景が潜んでいるという話になる。言葉は深い。そしてその歴史をさぐる作業は楽しい。

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