見出し画像

森村修「ケアの倫理」大修館書店

この本の中で印象的だったキーワードは
「相互依存(=支えあいInterdependence)」そして「自己ケア」だ。

他人へのケアは「自己ケア」なしにはあり得ない。当然、そこには「感受性」「感性」は必要になるのであるが、自己犠牲によって潰れていく多くの教育者や、医師などにこの考え方はかなり重要だと思った。

ケアという言葉はラテン語のcuraに由来し、「重荷(心配・苦労・不安)としてのケア」「気遣いとしてのケア」の二つの意味がある。共に魂の治療に関するものである。では、そのケアは如何なる倫理に支えられるべきか。それは「自主独立的な個人による支え合い」の倫理だ。ケアは決して強者が弱者を助けるものではない。

スピリチュアルペイン(絶望することの痛み)を自主独立した個人が共感する、共有するとき、ケアは成立するのだ。この考え方はレヴィナスの哲学における「受苦の受動性」からきている。「病気としての痛み」は耐えられない<いたみ>であるが故に、どうしても逃げ場へ繋がる通路が必要となり、他者との関係が形成される。

他者は私の苦しみを自分の苦しみとして引き受けることはできないが、<私という他者の苦しみ>として引き受けることができる。勿論、ここには関わる者の責任も伴っている。この考え方は「近代的自己」という非常に自分勝手な思い込みによる援助(私はあなたの気持がわかる等・・)を根本的に否定するものだ。

自己犠牲を美化する社会風土はケアの本質を見誤らせる要因になりうる。大切なのは「支えあう」という視点なのだ。「自己ケア」なしに「他者ケア」はあり得ない。とっても大切な考え方だと思う。

<メモ>
・上田三四二曰く、「日常感覚は死の隠蔽にはたらく。マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。」死というものが他人事であることが実に多い。

・私達は悲しむ術を身につけるべきだ。うまく悲しむことは重要だ。

・フロイトは悲哀を乗り越えていく過程を「悲哀の仕事(喪の仕事)」と呼んだ。

・悲嘆の感情はマイナスの力で、私達の生きる方向を曲げてしまう。この時大事なのは「世界を学びなおすこと」である。これが「良く生きる」ということにつながる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?