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平井正修「花のように、生きる」幻冬舎

著者は山岡鉄舟がつくった臨済宗全生庵の住職。
禅の教えはいろいろと参考になることが多い。

花は仏教においては仏の慈悲をあらわすが、禅においては「無心」の象徴でもある。花が咲くとは悟りを開くことであり、梅の花のように寒中に咲く花はまさに修行のあとに悟りを開くことをしめしている。

花は「見てくれ!」とはいわない。大地に根を張って、誰が見ていようといまいと咲くために懸命に命をつむいでいく。人間は「認めてほしい」という気持ちのために、苦しむ。花から学ぶべきことは多い。

昇進したりすると、あたかも偉くなったかのように振舞う輩が俺の傍にもいるが、人間の価値は「どう生きているか」だけだ。ドーダ心はある意味煩悩ともいえるのだろう。人の評価やほめ言葉などに踊ることなく、自分を律する必要がある。

「人に接するに春風駘蕩の如く、秋霜烈日をもって自らを粛む」

という言葉が佐藤一斎の「言誌四録」にある。これはポリシーにしたい言葉だ。結果が出ないときは「今何をしているのか」に焦点をおくことが大事で、絶望感に陥ったとしても身体は絶望していない現実に焦点を当てて、しっかり食べ、運動し、眠る。そういった屈強な思考を持つことが、強く生きていく上での鍵となる。

変なプライドにしがみつくこともない。「プライドが傷つく」というが本来プライドは他人に振りかざすことではない。自分を律し、それに恥じない生き方をすることである。他人の振る舞いによって傷つくものではない。

禅の修業をするつもりはないが、この哲学は説得力がある。またこれからも見て生きたい。

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