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E.フロム「自由からの逃走」創元社

昭和27年(1952年)に発行されたセピア色の版で読んだ古典は本当に素晴らしかった。久しぶりに言葉に力と深さがあってゾクッとくる本に出会った。表題の「自由からの逃走」は今に通じるものである。この本が出た1941年はナチスドイツの熱狂がヨーロッパを震撼させていた時期であり、ユダヤ系ドイツ人のフロムはその中で人々の「自由からの逃走」を目の当たりにし、歴史にメスを入れながら作業を展開していったようだ。彼はフロイト心理学のアプローチだけでは解明できないものを社会心理学という形で展開したフロンティアである(フロイト左派)。彼は自由の意味を歴史に求め、中世からその分析を試みている。「暗黒の中世」は実は孤独のない個性の認められた時代であったこと、まだ個人がなかっただけであること、宗教改革という中産階級による自己防衛のために始まった行為とルネッサンスという富裕層の改革は大衆に「新しい自由」を与えたと同時に「孤独と不安」をもたらしたことを指摘している。カルヴァンの予定論はまさに「自己責任論(根本的不平等)」を定着させ、ルターの「原罪論」は神の恩寵なしには生きられないという足かせを与えた。よって中世の安定感から投げ出された大衆はキリスト教的な愛・正義・友愛にすがらざるを得なくなった、唸らざるをえない分析だ。しかしそれにとどまらない。フロムは近代の自由の二面性として「われわれは、外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。」と目に見えない匿名の権威(国家・メディア・世論など)に警告を発している。その闇の部分をえぐり出したのがニーチェであり、カフカであったわけだ。自分自身で決断するといくら言ってみたところで、それは孤独や不安からの逃避としての決断である場合が多い。相手を完全に支配することの快楽、これがサディズム的衝動の本質である。しかし、これは孤独に耐えられない自分自身の弱点からの逃走という事実と背中合わせである。ある支配に服すことで得られる安定感に伴う代価は大きい。自発性、個性の放棄である。しかし人々は「自由からの逃走」=「新しい束縛への逃走」をやめようとしない。そこでフロムは提案している。「我々は真の理想(個人の成長と幸福)と仮の理想の違いを認識しなければならない」「感情の貧困化と闘わなければならない」

<メモ>
「人間の性質や情熱や不安は文化的な産物である。事実人間自身が絶え間ない人間の努力のもっとも重要な創造であり完成である。その努力の記録を我々は歴史と呼ぶのである。」
「自由の意味は、人間が自分を独立し、分離した存在として意識する程度にしたがって違ってくるということである。」
「失楽園の物語は教会からみれば原罪であっても、人間の立場からは自由の始まりである。神に反することは強制から自己を解放することであり、最初の人間的行為といってもいいのである。」

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