能力を眠らせて見えた彼女 その1 実は“何者か”になりたかった話

メミちゃんは27歳だったが、ほぼ、高校生に見えた。
身長148cm。ハッキリした二重の目に小顔の童顔だった。
関西の私立大学の雄の心理学部卒。就職はせず、学習塾の答案採点のアルバイトと中華レストランのウェイトレスをしていた。

私(ヤマノ)は、メミちゃんが答案採点のアルバイトをしている塾の事務員をしていた。その縁で彼女と知り合った。
職場の慣習で、私は彼女のことを「先生」と呼び、彼女の能力の高さとそつのなさに一目置いていた。
そんな人が、一方でウェイトレスをしている、と聞いた時は、
─先生でウェイトレス。ギャップ、カッコいいなぁ。
なんて思った。

私はだんだん彼女と親しくなり、そのうち彼女のことを、メミちゃん、と、あだ名で呼ぶようになった。
職場の愚痴を聞いてもらうようになり、将来への不安など、打ち明け話もするようになった。
そして、いつも飄々としている彼女に改まって聞いてみたいことができた。

─メミちゃんは人生への焦りはない?その日々に物足りなくはないの?

彼女はとても優秀で、物識りで、面白い人だった。私からすれば、秘めたる可能性に満ちて見えるのだが、本人は欲もなさそうに、ごくごく、ドメスティックな日々を重ねている。‥だけに思える。
話を聞くに、レストランでも仲間から頼りにされている気がする。
その気になれば、良い会社にも入れたんじゃないか。きっと活躍できただろう。
専門だった心理系の職業に就こうとか思わなかったのだろうか。

彼女は、愛らしい見た目には不釣り合いな妙な落ち着きがあった。物事を自分なりに見極めており、問へば絶妙な返しをした。
そんなメミちゃんに、生きざま みたいなことを質問したら、どんな返答をするだろう。

なぜ、そんな質問をしたかったかというと、私には日々、焦燥感があった。
20代をこのまま過ごしていいんだろうか、と。
社会人になってまだ2年めだが、職場に振り回され、疲弊していた。
加えて、大学卒業時に諦めたマンガ家への夢にまだ、多少の未練があった。学生時代の投稿を通して、自分にはそのセンスがないと思い知ったし、作品を書き続ける気力も体力も足りない、と身に沁みたのに。
「いつもほかごとを考えてる」
と、職場でいわれたことがある。
─その通りだ。いつもマンガのネタを考えている。この人、相手をよく見てるな。
と、指摘してきた相手に思った。
仕事は嫌いではなかったが、自分が社会に埋没していくような歯痒さを感じてモヤモヤしていた。

メミちゃんに質問するタイミングは、まあまあ、あった。
だが、彼女を前にすると、彼女の飄々、堂々、淡々とした姿に質問は背に隠れた。
なんだか、自分がつまらない人間のように思えた。
─聞くまでもないかもしれない。
好奇心旺盛で反射的に知識がにじみ出るような彼女の姿は、毎日がそれなりです、といってるようなものかもしれない。
‥と、私は自己完結するのだった。

「おじさんのお客さんに、キミ、ストッキング、破れてるよ、っていわれたことがある」
と、メミちゃんが置かれた白い皿を見ながらいった。
メミちゃんと小さなフランス風家庭料理の店に入った時のことだ。
フフッ、という感じの笑みをしていた。
私がいつものように青々しい憤りを語っていた時だったと思う。
当時はフランス料理が少し、流行っていて手頃な店が手近にあった。

彼女が、アルバイト先の中華レストランで忙しく立ち働いている最中、背後から突然、ストッキングの破れを指摘された、という。
店のえんじ色の制服を着た、見た目、高校生のアルバイトさんのふくらはぎ。ストッキングのホツレ。ちょっとニヤケたおじさん。そんな絵面が浮かんだ。
メミちゃんは笑顔でおじさんをいなしただろう。

─メミちゃんも世間に揉まれてる。賢く余裕ってわけじゃない。‥そりゃ、そうだ。
私は胸をトンと衝かれた感じだった。思えば、私はまったくのコドモだった。
メミちゃんは、既にメニューにあるお酒の説明書きに興味が移っていた。
3杯目のグラスが運ばれてきて、彼女はニコニコしながらゆっくりそれを手に取った。彼女は時々、ゆっくり動く。
そして、仕草がしっとりして見えた。アルコールのせいだけじゃないだろう。少し癖っ毛の黒髪と小さい頬に妙齢の色っぽさが漂っていた。

それから早や、3年。
メミちゃんは30歳が目前だった。
飄々とした彼女にも、将来への不安や結婚への心境の高まりが見え隠れした。
私はといえば、仕事にはすっかり慣れたものの、気持ちはますます落ち着かず、20代の後半を迎えて、本当にどうしよう、とモヤモヤが深まっていた。

その頃、メミちゃんに、メミちゃんの好きなことって何?、と聞いてみた。
“好きなこと”というのは、転職本(この頃はネットが普及してなかった)などによく書いてある、適性、適職の糸口を考える上での好きなこと、だった。
私は転職を視野に、先々を考えあぐねていた。
私の場合、イラストを描くこと、芝居やライブを観ることが好きなことだった。ちなみに特技は、手先の器用さ、仕事が早い(と、しばしばいってもらえた)、裏方業務など。データサイエンスが当時、一般的だったなら、そんな仕事にも興味が向いたと思う。
メミちゃんはどうだろう。なんて答えるだろう。

メミちゃんは、少し考えた後、
「編み物」
と、ポツリといった。

私は拍子抜けがした。
─好きなこと、って、それなりの脈絡で尋ねたつもりだったんだけどな。聞き方が悪かったかな。それとも、仕事観が根本的に違うってことかな。
確かにメミちゃんは、自分で編んだ服や小物をよく身に付けていた。創造的な作業が楽しく、発散にもなっているんだろう。
だが、私が欲しかった答えではなかった。
私は少々、次の言葉に詰まった。
しかし‥、今のは禅問答?、ヒーリング?‥みたいに考えれば、「人生、肩肘張らない」みたいないい回答─解答かもしれない、と思った。

しばらくして、メミちゃんは、
「結婚することになった」
と打ち明けてくれた。
軽くはにかみ、瞳が輝いていた。
一年前、たまたま偶然、高校の同級生と町の本屋で再会したのだという。会ったのは卒業以来だったそうだ。
それから自然と付き合いが始まり、結婚の運びとなった。
相手はノーベル賞授賞者も出ている研究室を経て、国内巨大企業の研究員をしているエリートだった。

またしばらくして、新居に呼ばれた。
結婚写真を見せてもらった。
純白のドレスをまとった彼女は、幸せな空気に包まれていた。
レースの白手袋で緑色の公衆電話の受話器を手にした写真があった。宣材写真みたいだな、と思った。
彼女には存在感がある、オーラがある、と思った。
結婚という新しいステップももちろん羨ましかったが、彼女の存在感に私は羨望を感じた。

別の日にまたお呼ばれして、ご主人と会った。
夫婦ともに飄々としていた。短いやり取りが、端で見ていて面白かった。
ご主人がずいぶん、大きな蓋を手にしていた。
私が、それは何か、と聞くと、ご主人は微笑みながら、空気の抜けるような声で、
「ふたっ‥‥」
といった。
私は、自分が言葉足らずなことに気付いた。そんなに大きな蓋、なんであるのか、と聞きたかったつもりだった。
ご主人は大鍋で無加水のカレー作りに意気込んでいた。

すぐに子どもができた。
メミちゃんは、産まれたばかりの赤ちゃんを見に来て、と連絡をくれた。
「すぐに大きくなっちゃう」
と、急かしてきた。
私はお祝いの品を持って、仕事帰りに彼女の家にお邪魔した。
そこで、メミちゃんの意外な呟きを聞く。

『何者かになりたかった』

玄関を開けた時、赤ちゃんを抱いたメミちゃんがニコニコして立っていた。
─大きい人形を抱いた少女みたいだ。
と、思った。
ご主人は残業で不在だった。
赤ちゃんはベッドに寝かされると、頭が手のひらに載りそうなほど、まだ小さかった。

夕飯をご馳走になっていると、一緒にちびちびと食べていたメミちゃんが何気ない感じで呟いた。
「何者かになりたかった。
だけど子どもができたら、そんな気持ち、全部、無くなった」
私はその言葉にハッとなった。
─えっ、そうなの?
メミちゃんも、“何者かになりたい”という気持ちがあったんだ‥。

子どもの誕生で、“何者か”になりたかった気持ちが満たされるものだろうか、とも思った。もちろん、感じ方は人それぞれだ。彼女の場合、満たされたのだ。
彼女が何者かになりたかったなんて、意外だった。

メミちゃんはその後も双子に恵まれた。生活はいっそう、目まぐるしくなっただろう。
私は職場を辞めていた。ありきたりながら、派遣社員になり、イラスト系ソフトやCADなどの習得を始めた。
メミちゃんと私は互いに、自然とあまり連絡を取らなくなった。
そしてメミちゃん一家はご主人の転勤に伴い、アメリカに行ってしまった。
彼女とのつながりはそこでフェイドアウトした。

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