見出し画像

自分を大切にするってどういうこと。

いつでも逃げてきたのは他人からだと思っていた。辛い現実、社会からだと思っていた。

だから、他人とは、人とは何かと考えてきた。社会とは何なのか、私の歩んできた現実とは何だったのか、と咀嚼しようとしてきた。

考えることに意味が無かった訳じゃなかった。でも、それらを考えれば考える程、いつもその共通点、中心には私、つまり自分がいて、自分のことも
考えないとと思うようになった。

自分の表面をなぞって、形を確認する作業は楽だった。どこで生まれてきたか、育ってきたか、今どこに在るのか。少し内側を探る作業も、難しくなかった。趣味は何、好物は何、今ハマっているものは何。

でも、骨や肉や内臓の形や配置を理解して組み立てていっても、私は出来上がらなかった。表情が無かった、つまり心がなかった。だから私は私の心を見つめないといけなくなった。

知識は増えれば増えるほど分からないことが増えていくけど、心も同じだった。深く潜れば潜るほど、ぼやけて、曖昧で、輪郭がはっきりしなかった。なにより、深く潜れば潜るほど、しんどかった、辛かった。これ以上行ったら戻ってこれない。

他人がいれば助けてくれるからよかった。ロープを深い底まで降ろしてくれるから。でも、いつも他人に、私の心の水面にいてもらうことも出来ないから、私はこの作業を一人でやるしかない。

ある日潜った時、偶然あるものを見つけた。赤ん坊だった。底なしに見える心の中に赤ん坊が浮かんでいた。これだけはぼやけていない、ひどく輪郭のある、生き物だった。

助けなきゃと思った。でも、助ける方法が分からなかった。そもそも助けるとはどういうこと、と思った。連れて帰ればいいのだろうか。赤ん坊にとっては、ここにいる方が生きながらえるかもしれないのに。じゃあ逆に心という水中の中に残しておくとしたなら、私はどうこの子を生きながらえさせればいい?

潜る度、私はこの子に遭遇した。でも見て見ないふりをした。生きていることだけを確認して近づこうとしなかった。

私は大人だから、この子は誰なのだろうと思っていた。ある日、とある映画作品を見た。「スティルライフオブメモリーズ」。理論だてて説明できないけど、私はこの作品を見た時に、ふと気づいた。あの赤ん坊、あの子は私自身だ、と。

あの子は私なので、私が生きている内はあの子も死なないようだ。でも厄介なのは、あの子は年をとらない。依然として赤ん坊のまま泣いている。私の心にいるのは私だけ。誰もあの子を育ててくれないから、私が育てるしか選択肢はなかった。

でも私は育て方を知らなかった。その子を可愛いと思えなかった。慈悲深く抱きしめることも、泣くのをあやすことも出来なかった。だから、代わりに育ててくれる人を見つけることの方が楽に思えて、探し出してはその子のいる心のなかまで案内して、育ててもらおうとして、失敗して、失敗して、失敗した。その子の泣き声は止まらず、やっぱり歳もとってくれず、ずっと赤ん坊のままだった。

ある時はその子が好きそうなものを与えてみた。一瞬、泣き止んだ。でもすぐに泣き始めて、ほとほと困り果てた。分かっている。何をするのがこの子にとってベストなのか私には分かっている。身を寄せて、この子を撫でたり、触ってあげたり、抱きしめて、私の体温をあげればいい。分かっている。分かっている。でも、出来なかった。

その子が私なのであれば、その子を殺せば、私は苦しまずに済むんじゃないかと思った。あるいは私が死ねば、その子も死ぬからもう見なくていいのではないかと、物騒なことを考えた。でもどちらも出来なかった。人は、命に極端に敏感であるの同時に極端に鈍感であることを知った。

私という人型の模型は、外側はもう完成している。あとは心だけ。その他の心のあらゆることを知るのも大事だけど、この子が泣いている限り、私は注意を向けざるを得ない。それに、この子が育ってくれれば、他のなにかを知れる手掛かりになるかもしれない。

この子を大切にしないと、と思う。でも、大切にするってどういうこと。大切にしないと、と思うのに大切にしたいと本心から思えないのは何故。大切にするために私が簡単にできる行動すらとれないのは何故。

私はその子を見つけてしまったが故に、いわゆる分かりやすい言葉で例えるなら、母親になることとなった。私の母親、私。多分これは、スタートライン。私が私の育児をすることを、そっと見守ってほしい。ここまで見てくれた方がいたのだとしたら、そっと応援してほしい。閲覧ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?