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異常も正常も大嫌いだ。

死ぬところだった、というにはやや大袈裟で、しかしあの状況を、あの時の私を説明たりうる言葉で説明するならこの一言がやはり、相応しい。

池袋、某チェーン喫茶店。午後7時半、から8時20分。死にそう、と思った。パニック発作に類似するものかもしれない。何か思考、言葉、いや、一文字ですら浮かべば、自分に飲み込まれて、自分に殺されると思った。例えそれが簡単な、アイスコーヒーという単語だとしても、思考が生まれたという事実によって、私は足場を失って、自分に引き摺り込まれて落ちる、死ぬと思った。

身体に現れたものは寒気と痺れ、動悸、呼吸の乱れ。上半身が内側からドライアイスを炊いたのかと思うほど凍りつくほどに冷え、末端、つまり手先は感覚を失い痺れ、力も入らない。心臓の鼓動は常に速く、呼吸を整えるのに精一杯。身体症状に注意を向ければ、なんとなく気は楽になったが、鎮まるのが待つあの永遠かと思われる時間は、やはり苦しかった。

人生で初めて、いのちの電話と呼ばれるものに助けを求めようかと思った。スマホで電話番号を調べた。番号を入力することは、しなかった。だって、私の思考は、こんな時でも至って理性的で正常だったから。

自分で危ないと思えた、助けを求められる状態、それ自体が極めて正常なのだ。異常を内包しながらも、ただの正常でしかなかった。死にたい、ではなかった。自分に殺されるのが怖いと思った。だから危ないと、助けてほしいと思った。しかし、私の体は私を痛めつけない、殺そうとしないどころか、脱力に痺れ、殺す余裕さえない。私からしたら内なる異常と外なる正常の衝突、でも本当の第三者からすると、具合が多少悪い正常、だったと思われる。

水をたくさん摂った。短い時間に、こまめに、一口ずつ。店員が私のグラスが空になったことに気付き、一言声をかけてくれて、私はハッとし、少し落ち着きを取り戻した。水も注がれた。私は大丈夫、大丈夫だ。

疲れた。会計を済ませ、階段を登り、外に出る。風が強くて寒かった。疲れた、とか、寒い、という別の感覚がある事で、私は私に引き摺り込まれることから避けられる気がした。

発作(と仮に呼ぶ)が起きた時、私の中で唯一言葉となった叫びは、本当は店の中で実際に声を出して叫びたかったことは、「異常も正常も大嫌いだ」だった。

死にそうと思ってから落ち着くまでの約40〜50分、異常だと思いつつもこの自分こそ本物の自分ではないかと思った。私の生の部分が外に出た気がして、真なる自分を見出した気がした。生の自分が、体を突き破り外の空気に触れて痛いと泣き叫ぶ。体という殻は息も絶え絶えに、痛みに耐える。突き破ったのも、抜け殻も、どちらも私。二重の痛みがあった。

もちろんこれは解釈だ。科学的に、精神医学的に見れば、パニック発作で片付けられるはずだ。しかし、私はあの時、突き破られ、突き破ったのだ。二重の痛み、二重の苦しみ、正常と異常の衝突。嫌いだ。正常ってなんだ。異常ってなんだ。正常は、正しいのか、楽しいのか、嬉しいのか、祝われるべきものなのか。異常は、間違っているのか、苦しいのか、憐れまれるべきものなのか、治さないといけないのか。

正常。そりゃ快適だ。苦しまずに済む。他人からも望まれるものなはずだ。しかし、見えるはずのもの、感じるはずのものが麻痺して、感知できないようになっているだけ、と言葉を変えれば異常じゃないか。

異常。そりゃ苦痛だ。他人から遠ざけられ、治すべきものとされる。しかし、全身で、全神経で、ここにある今を直に、生で認識できるのだと言えば、野生的ではあっても、正常じゃないか。

嫌いだ。本当に嫌いだ。恣意的に決められる正常と異常が。正常を保とうとする努力だって本当はしたくない。でもそこに人間社会があって、私の人間的生活、人間的な生があるから、命があるから、体があるから、なんとか適応しないといけないんです。苦痛を避けるために、正常を目指すのです。感情に、感性に、思考に、厚い毛布をかけるのです。見ないように、出てこないように。

矛盾を丸ごと受け入れる覚悟も、好きになる覚悟も、まだ私には備わっていません。外の世界、世間、社会を好きになる準備も出来ていません。私は産まれ、命を持っていながら、しかも成人すらしているのに、まだ足をバタつかせ、自分の足で歩いていない。

能動的に変わりたい、成長したい、とは思わない。どうせ私のしぶとさからしてハイハイしてでも進むのだから。いつか後ろを、過去を見て、こんな時もあったなと笑ってくれれば、それでいい。

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