【4分くらいで読める】過ぎし日の面影に囚われ【そっと前に進めば】
過ぎし日の面影に囚われ
寒くて、体がふわふわするんだ。足の震えも止まらない。怖くて怖くて仕方がないんだ。どうしたらこの体の震えは止まってくれるのだろうか。わからない。誰といてもなんだか孤独で。言葉を発さないニャーと鳴く猫だけが僕のそばにいてくれる。
ただこの猫だっていつまでも生きているわけではないんだ。この猫が死んだときのことを考えておく必要があるかもしれない。冷たく固まってしまって、瞳孔が開いた姿や、年老いて毛艶がなくなっていく所を見守っていくことになる。君を途中で投げ出すつもりは毛頭ない。最後の最後まで僕は君と一緒だ。安心して生きてほしい。そう逡巡すると、側でスヤスヤと寝息を立てている猫が、尻尾を少しだけ振るわせた。
しかし、そのあとの僕はどうやって生きていけばいいのだろう。今はまだ小さなぬくもりを支えに生きているけれど、そのぬくもりすらなくなってしまえば、一体誰が僕を温めてくれるというのだろうか。この世には腐る程に人間が生きているけれど、もう誰1人として、僕と生きていこうと考える者はいない。誰とも視線が交錯することもなく、社交辞令や生返事といった、中身の全くないやりとりだけが毎日続いていく。他人の温もりなんて、もうとうに感じたこともない。あえて感じると表現するならば、満員電車でふれあう人々の不快な温もりだけだろう。
こんな人生に何の意味があるのだろうか?この疑問を僕はいつからかずっと抱えてきたが、誰もその答えを教えてくれることもないし聞くつもりもなかった。そして僕なりに考えて出した答えは「人生に意味など無い」ということだった。
どれだけ高級なフルコースを食べたとしても、色々な場所を見て肌で感じたとしても、神や仏に祈ったとしても、美しい女性を欲望のままに犯したとしても。所詮はその瞬間が満たされるだけで、時が過ぎればただ薄ら寒い虚しさと恐怖だけが、いみじく僕の心に蔓延り、心臓を締め上げるのだった。
満たされる事に重きを置くならば、時々を楽しめばいいのかもしれない。しかし、満たされてしまえば渇いてしまわないか?そして乾いた心を潤すには、再び自らを満たす必要があるのではないか?生きることに意味を見い出せない僕には、その一連の流れに対する意義や価値を感じることはできなかった。
ただ心が常に凪いでいてほしい。満たされる必要は無い。そう思っているのに、いつの間にか心は満たされるどころか、知らないうちに恐怖に駆られている。何も求めていないのに、心が荒れ狂う。僕が平穏に生きるためには、これ以上何を求めなければいいのだろう?生きる事だろうか?あなたなら答えを知っていたのかもしれない。なぜか今更そう思ってしまった。
右のこめかみが痛い。知らない間に肩に力が入っていたのかもしれない。暴走する思考回路を鎮めるため、外に出ようと思った。
アパートの階段を降り、近くの海岸を目指す。
少し歩くとマリーナにつく。開けた駐車場では幸せそうな家族が車から降りてくる所だった。駐車場に併設されているレストランといった商業施設は、平日だと言うのにそれなりの混み合っている。
目の前には多くの人間が居るというのに、僕は相変わらず独りだった。こんな所に来るんじゃなかったと思った。幸せを具現化したような人種しかいない所に僕なんかが来ていいわけがなかったのだ。
僕は下を向き、唾を吐いてさっさと駐車場を早歩きで縦断する。砂浜よりも手前の遊歩道に抜け、そのまま歩を進めると、ヨットや小型のクルーザーが係留されている場所についた。海面が上下するのと一緒に船達も波に揺られている。ボーッとその光景を眺めていたけれど、別に何の感慨もなく、ただ時間だけが無駄に過ぎていった。
時折、船を係留しているロープからキリキリという音がなる。まるでロープが悲鳴を上げているようだなと思った。僕の首にロープを巻いて、宙に吊るしてみれば同じような音が響くのだろうか。そんな馬鹿げた事を考えている。そこには何の意味もない。ただ生産性もなく時間の浪費でしかない。
上下に揺れるだけの船達から視線を外し、後ろを振り返ると、目の前には海が広がり、波が次々と寄せてくる。絶え間なく押し寄せてくる波に、そこはかとない畏れを覚えている気がする。きっとこの波はとても長い時間をかけてこの砂浜に辿り着いたはずだ。僕なんかにその最後を見守られてしまうなんて不憫でたまらなかった。砂浜を歩いてみると、足元には貝殻や、蟹の死骸がころがっていて、パリパリと音を立てる。ああもうなんて申し訳ないのだろう。生を全うしたであろう物達の最後を僕なんかが汚してしまうなんて。謝ったところで取り返すことなどできない。自分の存在が卑しくて堪らなかった。僕さえいなければ、必ず世界はもっといい方向に進むはずだ。エレベーターに乗車人数の制限があるように。この地球にもそんな法則とか何かがあるに違いない。僕はぼんやり働かせていた思考に絶望し、その場に跪く。
膝をついたことで再び貝殻を割ってしまった。
ごめんなさい。
いつの日だったろうか。僕はこの場所で、あなたと海を見ていたことがある。ただ、いつのことだったかは全く思い出すことができない。むしろ本当にあった出来事なのかすら疑うほどの記憶。真っ青なワンピースを着て、麦わら帽子をかぶり、風に飛ばされないよう手で押さえている姿が可憐だった。こちらを振り向いて、長く美しい髪が翻る。僕の記憶では、あなたは太陽を背負っているから顔の判別がつかない。少しはしゃぎすぎたと思ったのか、あなたは顔を俯向かせたまま僕の元へと戻ってくる。ふとこちらを向いたけれど髪が風でなびいて顔にかかっているから、あなたの顔はよくわからなかった。その瞬間に口が動いて、何かを僕に言ったはずだが、吹き荒ぶ海風が僕の鼓膜を叩いたから、その声は僕の脳に到達することなく波音にも飲まれていった。あなたはあの時、一体何と言ったのだろうか?思い返した所であなたはもういない。だから、その答えを知ることもできない。そしてなぜかわからないけれど、顔を思い出そうとすると、あなたの後ろ姿が思い出される。そうだ。髪の毛は肩くらいまでの長さだった気がする。目を強く瞑って、あなたの顔を必死に思い出そうとしていると、記憶の中のあなたがゆっくりとこちらを向き始める。そして、少しずつ顔が見えてこようかという時から違和感が生まれ、その違和感が確信になった時僕の心臓が止まりそうになった。あなたの顔は写真に写った顔を刃物でけずったように、無機質でグチャグチャだった。一体どういう事だ?そう考えながら、もうきっと2度と思い出す事ができないくらいに記憶が薄れてしまっているんだと思い知った。それでも僕は、あなたとここで夕陽を見ながら手を繋いだ時の温もりは忘れない。
ただもう一度だけでいいから。あなたに会いたいと思った。軋む体を2本の脚で支えるのはもう疲れた。2本の腕はもう上がらないくらいに疲弊している。しかし4本の手足を庇うように四つん這いになってみれば、平伏している自分自身の惨めさに涙が溢れた。無理に張っていた胸は力無く猫背になり、前向きを心がけていた思考は、もうどこかにいってしまった。この世界の全てを憎んでいるというのに、私はまだ、生きる事を時間や生まれてしまった事実によって強いられている。
あなたに。あなたにもう一度だけ会う事ができたら。僕にはもう思い残すことはない。さよならを。この世界に最も幸福に満ち足りたサヨナラを告げられる。そうすれば係留した船の縄がキリキリと歓喜の悲鳴をあげるように、僕を縊るロープも同じように歓喜の悲鳴を響かせてくれるだろう。
知らないうちに泣いていた。砂浜に僕の涙よってできた小さな砂粒がある。そっとそれをつまみ上げると、音もなく壊れて消える。私の悲しみはこれ程まで簡単に無かった事になるのか。反吐が出そうになった。
「わたしおおきくなったらあなたのおよめさんになる!」
そう言ってくれたあなたはもういない。あの日の小さな手の温もりはもう戻らない。ゆっくりと海へと歩を進めていく。あぁ、猫に餌をあげていなかった。そう思いながら、申し訳ないと思いながら進む。足が濡れ、膝まで濡れたと思ったら胸元まで海水が来た。このまま進もう。僕はこの世界にただ係留されているだけの人間だ。繋ぎ止められたまま生きるなんて悲惨すぎる。
僕は冷たい海水の中で、暖かい海に抱かれる。温もりとは?こういうものなのだろう。もう怖いことなんかないんだ。
どこか遠くで、ニャー。と、猫が寂しそうに鳴いた気がした。
終わり
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