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吉原遊女の一日

皆さんは「吉原遊廓(よしはらゆうかく)」というのを知っていますか。時代劇や時代小説にときどき出てきますね。

「遊廓」とは、公に認められた遊女屋を集めて周囲を塀や堀などで囲った区画のことで、吉原遊廓は江戸時代に吉原(今の東京浅草付近)にありました。広さはおよそ2万700坪(東京ドームの約1.46倍)、そこに300軒ほどの遊女屋があり、最盛期には数千人の遊女がいました。


遊女には、花魁(おいらん)、新造(しんぞう)、禿(かむろ)の三つの階級がありました。

花魁は別名太夫(たゆう)とも言い、最高級の遊女で、呼び出し、座敷持(ざしきもち)、部屋持(へやもち)の三つの階級があります。

呼び出しは、自分の個室と座敷を持っていますが、揚屋(あげや)という宿に呼ばれて客の相手をします。座敷持は、自分の個室と客の相手をする座敷を与えられていました。部屋持は、与えられた自分の個室で客の相手をします。花魁と遊ぶには高額の費用がかかるので、客は大名級の武士や金持ちの大商人たちでした。

新造は、花魁の下の下級遊女です。振袖新造、留袖新造、番頭新造の三つがあります。

振袖新造は、花魁につかえる15~16歳の見習い遊女で、客をとることはありません。留袖新造は、18歳になっても独立できず、花魁の世話になりながら客をとる遊女です。番頭新造は、大体30歳前後で、身請けされないまま年季を過ぎた遊女のことです。

禿は、花魁の下で雑用をするかたわら、遊女のしつけをうけている、10歳前後の女の子です。かつては私もそうでした。もちろん、客をとることはありません。


吉原遊廓は周囲が囲われているので、遊女たちは吉原の外へ出ることはできません。大門(おおもん)という遊廓唯一の出入り口から入ってくる客を待ちます。

遊女の仕事は、客の男をもてなし、性行為をすることです。それが毎日続くのですから、重労働です。そんな彼女たちは、いったいどんな生活をしていたのでしょうか。

一人の座敷持の花魁の遊女をモデルに、一日の流れをたどってみましょう。


夜明け近く。私は、まだ暗い部屋で、布団の中に眠っています。昨夜の泊り客と一緒に。昨夜の客は、酒問屋の大店の若旦那でした。

暁七つ(午前4時ごろ)、店の若い衆がやってきて明かりをともし、部屋に声をかけます。私が先に起きて、寝込んでいる若旦那の体を揺すると、目を覚ましてくれました。

若旦那が起きると、禿が洗面道具を持ってきます。

洗面道具は、うがい茶碗、房楊枝(ふさようじ)、歯磨き粉です。うがい茶碗には顔を洗い、うがいをする水が入っています。房楊枝は今の歯ブラシと同じもので、歯磨き粉は塩です。


やがて、明け六ツ(午前6時ごろ)になると大門が開き、泊り客が帰り始めます。若旦那も帰り支度を始めたので、私が着替えを手伝いました。

帰り支度が終わると、若旦那を店先まで送ります。いわゆる「後朝(きぬぎぬ)の別れ」です。そして、別れ際にささやきます。

「また来てくださいね、待っています」

客をその気にさせて送り出すのも、遊女が身につけておく手練手管の一つなのです。何しろ、客が来てくれなければ、私たちの稼ぎにならないのですから。

客が帰った後、私は再び布団に入って二度寝します。客のことを気にすることなく、ゆっくり眠れる貴重な時間です。


起きるのは、朝四ツ(午前10時ごろ)。起きたら、朝風呂に入ります。店には内湯があるのです。お風呂は毎日入りますが、洗髪は手間がかかるので月に一回です。

お風呂のあとは遅めの朝食です。私は自分の部屋を持っているので、そこに食事を運ばせます。と言っても、食事の内容は、白米、みそ汁、漬物という粗末なもので、客に出すものとは大違いです。

食事をすませると、昼見世(ひるみせ)の準備にかかります。化粧をしたり、髪を結ったり。

吉原では、昼と夜二回の営業をしています。張見世(はりみせ)といって、店の入口に表通りに面して特別に作られた部屋があり、そこに遊女たちが盛装して並ぶのです。客は、外からその遊女たちをながめて、自分の好みを選びます。


昼見世は、昼九ツ(正午ごろ)から始まります。私も並びました。

昼見世にやって来る客は、参勤交代で江戸に出てきた勤番の武士たちがおもで、店に上がることなく吉原見物にきただけ、という冷やかしの客もずいぶんいました。大名屋敷は門限が厳しく、夜遊びができなかったからです。

ですから、昼見世はひまなときが多いのです。

今日もひまだったので、私は本を読んだり、人相見を呼んで手相を見てもらったり、ほかの遊女たちとカルタ取りをしたりして過ごしました。

昼見世は、夕七ツ(午後4時ごろ)に終わります。それから夜見世の始まる暮六ツ(午後6時ごろ)までは、自由時間です。

遅い昼食をとり、夜見世に備えて化粧を直し、三味線や踊りの稽古をします。芸を磨くのも、花魁の大事なたしなみです。

また、しばらく顔を見せない客に手紙を書きます。客の心をつかむためには、遊女にとって手紙は必要な手段です。この間も、私が書いた手紙が功を奏して、売れっ子の歌舞伎役者が久しぶりに来てくれたのでした。


暮れ六ツ、遊女屋に灯りがともり、三味線によるお囃子(はやし)が弾き鳴らされ、夜見世が始まります。吉原が活気づく時間です。

夕暮れの闇の中で、大行灯(あんどん)に照らし出された遊女たちは妖艶な美しさで、昼見世とは全く違う雰囲気が漂っています。私もわくわくした気分で座っていました。

外を通る客の数もだんだん増えてきました。どうやら、花魁道中が行われるようです。

座敷持の私とは違って、呼び出しの花魁が客から呼ばれた揚屋(あげや)まで、吉原の町中をきらびやかに歩いていきます。

揚屋とは、客が呼び出しの花魁を呼んで遊ぶ宿のことです。きっと、金持ちの客の一人が揚屋から花魁を呼んだのでしょう。

定紋(じょうもん)入りの箱提灯(はこちょうちん)を持った若い者に先導されて、二人の禿を供にした花魁が高さ5~6寸(約15~18センチ)もある黒塗り畳付きの下駄をはき、外八文字(そとはちもんじ)と呼ばれる独特の歩き方で進んでいきます。

花魁道中を見物した客たちが、私のいる店の前を通って行きます。夜見世に出ている遊女たちの品定めをしながら。


そのなかの一人が、店の若い者と話を始めました。粋な遊び人、といった感じです。すると、私の名前が呼ばれました。私を指名してくれたのです。

初会の客なので、店の者が座敷へ案内しました。しばらく客を待たせたあと、私が顔を出します。盃を交わし、初めてのあいさつをします。客が太鼓持ちや芸者を呼び、豪華な料理も運ばれて、別の部屋で宴会が始まりました。もちろん私も同席します。

しばらく同席したあと、私はまた夜見世に戻りました。新しい客を見つけるためです。一晩に複数の客をとるのは、珍しいことではありません。そうしなければ、店が儲からないからです。

夜四ツ(午後10時ごろ)、大門が閉じられます。夜見世も、表向きはここで終了です。しかし、大門が閉じても隣のくぐり戸から出入りができるので、実際はその後も2時間ほど遊女たちは座っています。私も座って、この日3人目の客をとりました。

暁九つ(午前0時ごろ)。遊女屋が完全に店じまいして、夜見世にいた遊女もいなくなります。新規の客はもうとれないので、私は3人の客の座敷を順番に回って相手をします。

と言っても、まだ床入れではありません。

暁八ツ(午前2時ごろ)、客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間になります。いよいよ床入れ、というわけです。今夜の私の客は3人。初めての客は大事にしないといけない、と言われています。なじみの客になってもらうためです。

三人の相手をするのは大変ですが、一人ずつ部屋を回ります。体がもたないときは、床入れに行かないこともありました。期待して私を待っていたのに、朝まで顔を見せない。そんな客はきっと怒って帰ったことでしょう。

今夜は何とか三人を相手にできそうです。それをすませて、やっと私の一日が終わるのです。


どうですか。遊女の一日の流れをわかっていただけたでしょうか。

現代時間で簡単に整理してみます。

①午前10時、一日の目覚め、朝風呂に入り、朝食を食べ、昼見世の準備をする。

②正午から午後4時、昼見世に出る。

③午後4時から6時、自由時間。遅い昼食と、夜見世の準備。

④午後6時から午後10時、夜見世に出る。

⑤午前2時、客との床入れ。

⑥午前6時、後朝の別れ。

遊女の生活は一見華やかなようですが、実は重労働の毎日なのです。幼いころ買われてきて、年季が明けるまでやめることはできません。その暗い背景も知っておいてくださいね。




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