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桜の花びらになって

ひらりとした衣装が似合う男性はこの人以外に思い当たらない。フィギュアスケートで《春よ、来い》を踊った人は、桜の花びら、そのものになっていた。

《春よ、来い》を見たのは、2022年の初冬に開催されたプロローグ八戸公演。

散る桜をピアノの音に変えたような清塚信也の演奏は美しく、その音楽に身を委ねながら、目には美しいスケートに見惚れていると、技のスピンやターンの動きに合わせて桜の花びらがリンクに舞い散った。曲調が盛上がると、ふっくら咲いた桜がリンク一面に広がった。観客はくるくると円形を描いていくスケートを目で追いかけ、桜を追いかける。氷上の桜のなかで演技する羽生結弦の姿は、舞い散る桜の花びらと一緒になっていく。音楽とプロジェクションマッピングの演出は、氷の舞台に春を到来させ、現実には見られない世界を観客に見せていた。

アイスショーの演技では、ポーズの1つ1つが洗練され、手の曲線の美しさまで極められているようだった。氷に顔を寄せるハイドロ・ブレーディングも長く伸びやかなイナバウアーも、リンクの桜と共演しながら、手の先まで美しい弧を描いていった。羽生結弦の演技の終わりは、その時の思いのままにポーズが決められ、同じ時がない。このとき、右手は高く上げられ、すっと握った左手は首元に置かれ、瞼を閉じて微笑みをたたえていた。

両腕に羽衣をまとわせたような柔らかな雰囲気の衣装は、桜がデザインされている。胸元のグレーは幹で、桜のなかにはイエローグリーンの葉桜も細やかに装飾されている。花の散ってしまった枝から現れる葉桜は、次の季節がすぐにやってくることを教えてくれる。フィギュアスケート衣装デザイナー伊藤聡美は、春の桜が見せてくれるすべてを《春よ、来い》の衣装に注ぎ込んでいる(註)。

プロローグの後、クラシックTV(2023年1月5日NHK放送)に羽生結弦がゲストで出演し、MCの清塚信也とプログラム《春よ、来い》などを語り合ったものが放送された。清塚は羽生の演技を間近で見て「人ではない」と語っていたが、それは本当に信じられる話。

プロローグで《春よ、来い》を踊った人は、桜の花びらそのものになって見えた。錯覚だっただろうか。

■アイスショー「プロローグ」八戸公演
2022年12月2日  フラット八戸
羽生結弦 《春よ、来い》
音楽:松任谷由実「春よ、来い」(1994年)
ピアノ演奏:清塚信也

註:伊藤聡美『MUSE ON ICE』 ジー・ビー 、2022年4月
伊藤聡美:フィギュアスケート衣装デザイナー。羽生結弦はじめ多くの選手の衣装を手掛けている。作品集『FIGURE SKATING ART COSTUMES』、『MUSE ON ICE』がある。エスモードジャパンで学び、イギリスのノッティンガム芸術大学に留学の後、ダンスウェアの会社で勤務し、独立して現在に至る。
https://www.esmodjapon.co.jp/almuni/satomi-ito/



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