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アイドルの踊る姿を見て元気づけられるとは思わなかった|CUTBOSS MAGAZINE 2019 年 13 号(11 月 17 日号)

昔からアイドルなんて微塵も興味なくて、正直、歌も上手くないし、拙い少女たちの頑張りを観ている暇があったら、自分が何かを頑張らないといけないしと思っていて、勉強……仕事……とにかく、私の視界にアイドルが入ることは一切なかった。他人を応援している場合じゃない。

なので、前号で書いた『野性爆弾のザ・ワールド チャネリング』への出演で、アイドルの存在、アップアップガールズ(2)を初めて知ったくらいだったわけだが、『ドラゴンボール超』を観ていたら、また、アイドルが気になってしまった。どうしたんだろう、私の意識にアイドルが入ってくるようになってきている。

ドラゴンボール超』はそもそも、作画崩壊が酷いと巷で噂になっていたので、それを確認する為に笑って観ていた。確かに、酷かった。

そうして『ドラゴンボール超』を流し観ていたら、エンディングでやたら奇妙な、耳に強烈に残る歌が流れていて、調べてみたら、それはアイドル「ばってん少女隊」の「よかよかダンス」という曲だった。

なんなんだろう、本当に、もう、老人というか、歳を取ったのだろうか。アイドルを応援したくなるとか、アイドルが可愛いとか、そういう気持ちは別に湧いてこないのだが、この子たちが踊っている姿、笑顔、それらが妙に眩しくて、元気だなあ、と思っている内に、自分も元気づけられた気分になった。

楽しそうだなあ、良い笑顔するなあ、自分が無邪気に笑ったのってもう何年もないのかもなあ、いいなあ、元気っていいなあ。

みたいな、凄く前向きな、満たされるような気分になった。

アイドルの楽しみ方とか知らないし、これを機にアイドルにハマったりもしないが、アイドルに魅せられる気持ちは、なんとなく分かったような気がした。アイドルってずっと、卑猥な、邪な、究極は男の性の対象だって、どこか軽蔑視しているところがあったのが正直なところなんだけど、中西里菜が AV 転身するのも当たり前みたいな考え、だったんだけど、そんな下衆だけだったらこんなに人気にならないか。今更ながら、アイドルに脱帽。老けたのかなあ。

 ダンスしてたら笑顔になるの(ふっふー)
 ダンスしてるから笑顔になるの(よかよか)
 どげな辛い事があっても
 笑っとったら楽しくなるばい!

だってさ。

ところで、動画、スペシャル Ver. じゃなくて、普通のやつないんかな。普通に聴きたいのだが。買えばいいのか。いや、まだアイドルを買うのは抵抗がある(←謎の最後の砦感)。

酒=楽しい、を当たり前にするのは違うんじゃないか

祖父は酒を水みたいに飲む人で、父親も酒を水みたいに飲む人で、叔父は酒が全く飲めなくて、私はというと、酒を水みたいには飲めないが、ウイスキーやブランデーをストレートで飲んでも、軽くしか酔わない程度には酒が強い。

じゃあ、酒を飲むのが楽しいだろう、好きだろう、とよく言われるのだが、酒は好きではないし、むしろ、嫌いだと思っている。

酒が美味しいのは分かっている。美味しい食事と同じように、私にとって、酒は美味しい食事の一部として嗜むものだ。酒は酔うためのものではなく、酒は騒ぐためのものではなく、酒は楽しくなるためのものではなく、酒はテンションを上げるためのものではなく、食事の一部でしかない。

酒が嫌いだと思っているのは、私以外の人たちが、酔い、正常ではなくなるからだ。私は酒を飲んで軽く酔いはするが、それによって楽しくなったりはしない。気分も、言動も、酔っていないときと何ら変わらない。

おそらく多くの人は、酔うことで、普段の自分から変化するから、楽しいのだろう。だから酒を飲みたがる。それは普段よりも楽しい気持ちになりたいからなのだろう。変化しない私にとっては、酒が楽しい気分になる材料にはならない。酒を飲んでも楽しくないし、酒を飲まなくても楽しいし、それは普段と同じで、そこに酒は全く必要ない。

この、酒の価値観が、合わない。それがとても多くて、辟易としている。

飲みに行こうと誘われたら、私は行かない。食事に行こうと誘われたら、私は行く。酒がなくても楽しいんだから。でもそれは殆どの人に伝わらない。

酒を飲んだら楽しい人が、ちょっと羨ましくも思う。楽しいことがあるだけで、人生は十分だと思う。酒に楽しさがない私の場合は、他に何かを見つけなければならない。

マイケルが白くなっていく様を日本人としてはどう捉えれば正解だったの?

肌が黒いことへの差別って、日本人だから絶対に分からないと思うのだが、このスリラーのマイケル・ジャクソン、今でも凄くカッコイイって思っている。

大学生の頃、よく真似て踊っていた(できてないけど)。

だから、白くなっていくマイケル・ジャクソンを見ていて、そんなに黒いということが、本当に嫌なんだというのが感じられたし、だからこそ、カッコイイという私の感覚は、日本人的で悪い感情なのだろうかと思ってしまった。

小説の文学性はすっかり漫画に引き継がれたと思う

「#プレステの思い出」を投稿していて思い出したのだが、大学受験でゲームをやめて以来、20 年近くゲームと疎遠になっていた。数えたら驚きの年月だった。ゲームがグラフィック重視で魅力がなくなったというのも多分にあるが、代わりにハマっていたのは「小説」だった。

大学への電車移動の際に、手持ち無沙汰で小説を読んでいたのだが、大学でも図書館で小説を読んで、帰ってからも寝落ちするまで小説を読んで、休日は起きてから寝るまで小説を読んで、本当に一日中、小説しか読んでいなかった。

小説が面白いのは勿論なんだが、小説という世界をそれまでに全く知らなかったことが一番大きい。学校で、国語の授業で、活字を勉強のために読めと教わるが、あれが全ての元凶だ。だから教師は頭が悪い。小説は娯楽だ、どう考えても。勉強ではない。娯楽だから、純粋に楽しく読めるし、そこから学ぶことがたくさんある。

結局、子供は、遊びの中で社会を学んで、発見して、成長していくわけだから、小説は活字は娯楽で良かった。勉強として半強制的に読ませようとする教育者たちは、何も分かっていない。机上で理想を語っているだけだ。中学のとき、女担任が、三者面談で、「洗濯物を洗ってください、よろしくお願いします、って家でも両親に対して礼儀正しく感謝しないと駄目です、改めなさい」と私に注意してきて、私の母親もさすがに「あんな教師の言うことは聞くな」と帰り道で言ったほど、教師というのは世間と価値観がずれている。

まあ、とにかく、学生時代に小説に出会えないことは、本当に損だったと、それは学校が原因だったと改めて思う。学校、職場、それはかなり小さなコミュニティだ。それ以上の人間と出会うのはとても難しい。フィクションだけど、少なくとも、その作家が何を考えて、何を感じて、何を体験してきたかが分かる小説は、リアルな人間との交流と同等、もしかしたらそれ以上に、価値のある触れ合いだと私は思っている。

でも近年は、小説を殆ど読まなくなってしまった。それは漫画も、文学的になってきたからだと思っている。代わりに漫画ばかりを読むようになった。笑いたくてギャグも読むが、やはり深く考えさせれる漫画が好きで、今年 2019 年に発見した漫画だと『私の少年』や『荒ぶる季節の乙女どもよ。』などが凄く良かったし、少しずつだが、以下マガジンに過去私が心に染みた漫画を残していこうと考えている。

カジュアルな運勢を占いだと誤解しないで!

占い師に出会ってホロスコ―プの読み方を教わってから、私もたまに頼まれて他人の占いをするのだが、占いが宝くじが当たる的なラッキー要素のものだと思っている人が凄く多い。

占いは自分の本質・性格と今の生活や仕事を照らし合わせて、どうすればより快適に生きていけるかを一緒に模索する指針みたいなものに過ぎないから、タイムラインで流れてくるような今日の運勢みたいな占いは誤解を多大に与えていて好きになれない。

最近、物凄く違和感を覚えたのがあって、ある星座に対して、今月の運勢、「疲れる人間関係を捨てよう!」って書いてあったのだが、いや、いやいや、無理じゃん。だから悩むんじゃん。それ簡単にできるなら、占い、いらないから。

これ凄く当たり前な話で、煩わしい人間関係を排除できれば、誰だってストレスが軽減できるんだよ。至極、当たり前。問題は、どうやってその人間関係を変化させるかなんだよ。そこが占いで模索する本題。「疲れる人間関係を捨てよう!」だけで、その手段が一切書いてない。そりゃそうだ、書けないよね。極端な話、職場なら仕事を辞める、家庭なら離婚する、そういう話だから、それ。

占い師が廃れず、金持ちも愛用しているのは、何よりも、人生の相談ができるからなんだよ。一緒に人生を考えてくれるから。現状を鑑みて、真剣に。そんなパートナー、なかなか出会えないからね。

食費入力のみ家計簿アプリ「食費簿」、自慰管理アプリ「アイナーノ」、どちらも御陰様で好調です。より良いアプリ開発に役立てます。