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オッペンハイマー感想 備忘


この映画に対する映像作品としての評価は、個人的に非常に高いです。大きな音や強い光によって、歓喜と絶望をシームレスに行ったり来たりする様を効果的に表現していました。このどっちつかずの世界観は、作品全体のテーマに大きく寄与していたと感じます。また、静寂と衝撃を行ったり来たりはするものの、全体を通して緊迫感のある糸が通っているところが、緊迫した時代を表していると感じました。場面転換はわかりにくい部分もありましたが、それぞれで舞台設定を大きく変えていたことが理解を助けていました。3時間という非常に長時間の映画ですが、一切暇に感じる時間がなく、それでいて唐突に感じる部分もなかったので、さすがの手腕であると感じます。

しかしながら、この映画の価値はやはりそこではなく、原爆という徹底的な間違いについて非常に丁寧に描いたことだと思います。
私は戦争に至る流れで、日本がありとあらゆる不義理、暴力をアジアの諸国に働き、その結果が不利な状況での戦争と敗北だと思っているため、日本人として、戦争において被害者だったという姿勢をとることには反対していますが、それでもなお、原爆を落とされる筋合いはなかったと思っています。(そんなことを言ったら、韓国は日本に植民地支配される筋合いはなかったと言うでしょうし、中国などそのほかのアジア諸国も怒るでしょうが。そして、それは事実です。かつての日本は卑劣で、大きく間違っていました)
そういう事情を踏まえてもなお、原爆という残酷な兵器のことを、クリストファー・ノーランは真面目に描いたと思います。ロシアによるウクライナへの侵略や、パレスチナに対するイスラエルの攻撃などの影響で、戦争への意識が高まっている世相を反映しているのでしょう。
まず、この作品から感じたことは、おそらくアメリカという国は、原爆によって日本人が11万人死んだこと自体を強く後悔している、というわけではないのだろうということです。凄惨な死体に惨さを感じてはいるでしょうが、きっと11万人が死に、その後合併症などで更に何万人もの人が亡くなることがわかっていたとしても、おそらくヨーロッパにあるドイツには落とさなかったし、遠いアジアの日本には落とせたでしょう。では何を後悔しているのか。それは原爆の開発により軍拡競争が進み、世界が致命的に変化したことだと思います。現在は核開発競争にも限界が訪れつつあり、平和協調路線に舵を切ろうと国際社会全体で努力していますが、一度始まった対立関係は容易には崩れません。実際にロシアは今回の戦争で原爆をよく匂わせていますし、核の傘は主流な考え方のひとつです。ちなみに私は反対です。強い国が暴力をちらつかせることにより牽制し合う関係は、いっせいにえいやと暴力を捨てなければ解消されませんが、それは非常に困難なことです。おそらく次の世界大戦は核戦争であり、大気に引火するかの如く、世界中を滅ぼし尽くしてしまうだろうと、現在の人々はうっすら思っています。かつてのオッペンハイマーもそのように考えたのでしょう。彼には勝利に喜ぶ人々の姿が、まるで風化したように、黒焦げになったように、死んでしまったように見えました。原爆の開発の結果、アメリカにもまた、そのような悲劇が訪れる可能性がうまれたのです。
作中には、「物理学の集大成がこの兵器かと思うと…」という言葉があります。研究の成果が出ればうれしいし、開発を進めていくことには興奮しても、その結果がもたらしたものが大量殺戮だということに、科学者たちは絶望するのでしょう。多くの西洋学問の基盤となる哲学は、社会をよりよくするためにはどうすればいいだろう?というところから出発しています。おそらくあらゆる学問も、根底にはその信念があったのに、その結末たる物理学の結晶は、大量破壊兵器に成り下がってしまいました。あらゆる学問が、人を殺すために始まったはずがありません。原爆の開発に猛反対する学者たちは、私たちの研究が人を殺すためのものであるはずがないと、怒っていたのでしょう。彼らは学問に美しい誇りを持っていたでしょうから。
先ほど、アメリカという国は、原爆によって日本人が11万人死んだこと自体を強く後悔している、というわけではないのだろうと述べましたが、クリストファー・ノーランは、必ずしもそういうわけではないのだろうと思います。原爆を日本に落としたこと自体が間違っていると捉えているように感じました。おそらく彼は、微笑む女性(監督の娘であると聞きました)をもっと激しく風化させることができたし、あそこにいた全員を黒焦げにして、全員が痛みと熱さに咽んでいるようにも表現できたでしょう。彼にはそのようなプランもあったように見えました。ただ、そうなるとやはりアメリカでは受け容れがたくなるでしょうから、あの描写になったのだと思います。歓喜する民衆と、興奮による足踏み、爆発音、オッペンハイマーに内在する恐怖、そういうものがすべて混然一体となって迫ってくる表現は、戦争というものを本質的に示していると感じます。
オッペンハイマーが執拗に赤狩りを受けるのも、結局のところ核開発競争などを背景とした東西冷戦の激化の影響です。アメリカとソ連が競うように核開発競争を行ったこと、そしてそれを誘引したのはアメリカの開発だったこと、そしてそれら全ての原因が、オッペンハイマー自身が成功させた原爆の開発だったことを示し、原爆の発明は間違っていたと告げています。アメリカが世界を滅ぼす端緒を創ってしまったのだと、暗に言っているようです。
この映画で歴史を学ぶべきではないですが、戦争の悍ましさや、戦争状態に慣れた国民の恐ろしさはよく表していると思います。
オッペンハイマーが実際に言った「私は死だ」という言葉は偉業を成し遂げた達成感を表しているでしょうが、クリストファー・ノーランは明らかにそれを内省的に使っています。しかし、犯した罪を自覚し、それに対する罰を受けたとしても、罪の結果はなくならず、現実として受け容れるしかないのです。
さて、このようにこの作品は非常に戦争反省的ですが、それでも透明化されたアメリカの問題も浮き彫りにしていました。ニューメキシコをアメリカ人だけのものだと思い込み、そこにいる原住民を透明化していることは、作中でほとんど触れられてもいません。日本は敵だったので、彼らに見えていたのでしょうが、原住民は見えてすらいなかったのでしょう。これはクリストファー・ノーランの問題というよりも、オッペンハイマーがそうだったのでしょうが、そうならそうでもっと真摯な描き方があったと思います。やはりどこか彼にも軽視している部分があったのでしょう。日本でも、アイヌや琉球の侵略・支配と透明化についてよく指摘されますが、おそらくそれと同じようなことが、アメリカ人にも起こっているのだろうと思っています。罪の結果を受け容れるには、まず自覚しなければなりません。これはいまだ自分でも知らない罪なのでしょう。
また、後悔と苦悩に苛まれる科学者たちに対して、その苦悩を泣き虫の坊やと言い放つ、狂人的な政治家たちが印象的でした。何万人も殺す計画を談笑しながらたてられて、11万人の焼け爛れた死者の上で微笑むことのできるものが、戦時中の政治家だったのでしょう。そういうある種の異常者たちが動かしていた世界が、強い国はいくらでも弱い国を切り分けていいし、際限なく軍拡を行い世界を滅ぼすものであったことは自明であると感じました。しかし、国民がそれを選んでいたのです。

4/10 TOHOシネマズ六本木ヒルズ

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