![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/131819871/rectangle_large_type_2_9e897bbac02e4f006f8aaa5e81f4c331.jpg?width=800)
【続いてる写経 1417日め】神田明神&成田山新勝寺、両詣りは御法度か?
房総半島にある洲崎神社様が、かつて勧請されて神田明神に祀られたことを知り、神田明神側でのご由緒を調べてみました。
が、その話はほとんど出てこず…。
代わりにヒットした気になる話がありました。
神田明神にお詣りしたら、成田山にはお詣りしてはいけない
もしくは逆で、
成田山にお詣りしたら、神田明神にお詣りしてはいけない
なぜ??
いや、これ知らなかったとは言え、今年早々に双方にお詣りしてるのよ、ワタシ…。
順番としては、神田明神様で正式参拝を受けたあと、成田山新勝寺の節分会に行ったのです。
この記事が発端なのかな?
さて、なぜに双方をお詣りしてはいけない説があるかというと、
そのご由緒とご祭神に理由がありました。
成田山新勝寺のご由緒は以下の通り。
朱雀天皇の勅命により、寬朝が弘法大師空海が敬刻開眼されたという高雄山神護寺の不動明王ご尊像を捧持して関東へ出発。
寛朝は成田の地にご尊像を奉安し、21日間にわたって護摩を焚いて乱の終息を祈願します。結願の日に平将門が敗れ、関東の地に再び平和が訪れます。
より
平将門公は、成田山においては”朝廷の敵”で悪者扱い。
対する神田明神様では、将門公を大己貴命様、少彦名命様の次の、三之宮としてお祀り。
除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。
より
江戸総鎮守として、”関東平野を守った英雄”としているのです。
将門公、江戸のお守りアイコン・・なのですね。
全く逆の、平将門公のお姿。
成田山新勝寺で沿革パネルも読んだはずなのに、ワタシの頭の中には、
成田山には、弘法大師作(と言われる)不動明王が祀られている
これしか残ってなかったのでした。
そんなわけで、
神田明神に詣でて、将門公を討った成田山に行くことは何事か!!
成田山に詣でて、敵の将門公を祀る神田明神を参拝するとは何事か!!
そんな説が出てくるようでした。
検証するに、現代人には正直、気にしないで良いと思いましたね。
なぜならば、成田山側から見れば、将門公が倒れてくれたおかげで、
弘法大師作の不動明王が鎮座することになった
↓
そのおかげで現在の賑わいがある
ある意味、将門公ありがとう、なわけです。
さらにその魂を鎮魂せしめてくれている、神田明神さんにもありがとうだと思います。
よって双方お詣り、理に叶っている。
勝手に解釈しました。
最近気になっているのは、成田山へお祀りされ「動かせなかった」とされている不動明王像。
貸し出したままとなっている神護寺さんの立場ですね…。
もしあの不動明王様が、神護寺さんにあったのなら、その後はどうなっていたのだろうか??
想像してしまいます。
今年は創建1200年。トーハク楽しみ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?