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【続いてる写経 671日め】〜御守りの御由緒を調べてみる

早稲田にある穴八幡宮様と放生寺様。
江戸時代は神仏習合で「光松山放生寺八幡宮」と発展していたとのこと。

それぞれ、冬至から節分までの間に授けられるお守りの名前は、
・穴八幡宮 = 一陽来復(由来は易経)
・放生寺  = 一陽来福(由来は易経と観音経の”福聚海無量”)

と微妙に名前が異なります。

今回この御守りに関して、双方の説明書きを読んでいたら、考え方の違いがありなかなか興味深いです。

以下、HPや説明書きから抜粋して比較してみました。

●どちらが先に始めたのか
・穴八幡宮 = 江戸時代・元禄年間(1688〜1704)
・放生寺  = 江戸時代・天保年間(1830〜1844)
よって、穴八幡宮のほうが先に始めたもののようです。

そして、この御守りに関しての態度も、ちょっとずつ違うのです。

●他の社寺に対して
・穴八幡宮 = 穴八幡宮とは一切関係がありません
・放生寺  = 昔は一つだったので、双方のお祀りがよろしい
 →さらに、お守りの形状から神社が上でお祀りするのがよい

放生寺さんは新参だったから、ちょっと謙虚な感じです。

ちなみに”一陽来復”お守りと称し、他で頒布されている神社は、
波除神社
須賀神社
車折神社


がありました。車折神社、なんか色々ついててお得!って感じが、、、。

●お守りが落ちた場合はどうすればいいのか?
・穴八幡宮 = 一度外した、落ちたお守りは再びおまつりできない
 →このような時は自宅の神棚に一時的に納め、八幡宮へなる早で納める
・放生寺  = 落ちた場合は再度お祀りしても(何時でも)OK

お引越は諦めるとして、落ちた場合は放生寺様のほうはもう一回貼ってもよいのです。
全般に、放生寺様、ゆるい。かつ書き方が謙虚。

そして、改めて比べてみると、穴八幡宮様のプライドを感じます。
この金銀融通の御守りを授かるからには、それ相応の態度と覚悟で臨んでみよ!と。

さらに、対放生寺様というより、他の神社様に対して、「まねすんじゃね〜」的な主張も感じます。

穴八幡宮様の場合、ちゃんとHPに御由緒が書かれていて、

「この御守は、当社に伝えられる福神(打出小槌)に起因するもので、この打出小槌は新編武藏国風土記に記載があるように、公家の水無瀬家が山城国国宝寺より感得したものを当社に納めたもので、聖武天皇が養老七年の冬至の日に龍神により授けられた宝器と伝えられております。
穴八幡宮の一陽来復御守は、江戸中期より年々冬至の福神祭に授与された独特のものであり、金銀融通の御守とも呼称されております。」

他の神社さんは、ざっと調べた限り、御由緒何も書かれていない。。
やっぱりね、ウラとったらどこのを授かるべきか、ってわかりますね。

ちなみに放生寺様は、
「當山で毎年多数の信徒に授与して居ります一陽来福のお札は、江戸天保年間より當山に伝わる秘法を厳修し一部の信徒に授与したのが始まりです。
その後時代の変遷により今日の様に多数の信徒に授与するようになりました。
そもそも、一陽来福は冬至を表す言葉「一陽来復」=陰極まって一陽が生ずると言う言葉に「来る」年も授与された方たち全てに沢山の「福」が来る様に、當山ご本尊を拝むときに唱えます観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。」

その由来や歴史を知るとありがたさ倍増です。
双方とも落ちずに、1年よろしくお願いします!と改めて手を合わせるのでした。

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