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【続いてる写経 1283日め】”家康さん”の性格が日本にもたらしたもの

司馬遼太郎氏の徳川家康を主人公とした『覇王の家』を、やっと読了しました。

その前の『新史 太閤記』の秀吉さんがあまりにも、”おもろいやつ”だったので、するすると読めたのですが、それに対して、家康さんというのは、

暗い・・

天下人となり、その後270年余り続く江戸幕府を作った人物は、
とっても用心深いキャラクターだったようですね。

それもそのはず、幼少期は織田家と今川家で人質生活を送り、領地に戻って以降も、信長にいいようにあしらわれ、挙げ句の果てには正妻や長男も政争に巻き込まれ、死に追いやられています。

それに性格的にも危ういところがあったらしく、
困難な局面になると「どうしよう、、どうしよう、、」とパニックに陥っていたようです。(これが今の大河ドラマのタイトルの所以のようです)

この用心深さ、本人の行動によく表れていて、当時の医師顔負けの医術の知識を持っていたとか。

十数段の薬箪笥を所有し、「和剤局方」という薬剤の書物を戦陣にも持って行ったらしいです。
鷹狩りを趣味としたのも、運動の効果を知っていたからとか。
(鷹狩りについては、地形調査に利用したという面もあるようです)

さらに、女性好きだったにも関わらず、手を出すのは”素人”さんのみ。
梅毒かからないよう、プロの遊女は相手にしなかったのだとか。

徹底してますな。

ガンガン勢いで、頂上まで上り詰めていったのが秀吉さんなら、
地を這うように、そーっと匍匐前進して、山のてっぺんまで登って行ったのが家康さん。

そんなイメージでした。

司馬遼太郎大先生は、そのような家康の性格が、その後の日本にもたらしたものを『覇王の家』のあとがきで語られています。

室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧にするにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺している不幸もつくった。
その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い

『覇王の家(下)』司馬遼太郎より

昭和48年(1973年)に書かれたこの文章は、”令和期”まで見事に通用するのでした。

確かに「Why Japanese people ? 」なんてネタが成立するんだから、特殊なんでしょうねえ…。

けれどもその特殊な江戸時代に花開いた文化が世界を魅了し、さらに受け継がれた現代日本のカルチャーを求めて、世界中から人々がやってくるのだから、

やっぱり江戸幕府、文化的にはすごかった

とは思います。

余談ながら、”家康さん”を演じている俳優さんは”どうする?”のか、
気になりますね。。
”黒田官兵衛”さんは、早々に決断されたようですが。。





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