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【続いてる写経 445日め(王羲之)】〜いつの世も必要なのはマーケティングらしい〜

鳥獣戯画→明恵上人→お茶の歴史、、とどんどん世界が広がり、興味が尽きない。収集がつかなくなってきました。

とりあえず昨日の時点で気になったのは、最澄さんがお茶の種を持ち帰ったときに、なぜ普及しなかったか?でしょうか。
この時のお茶は「希少性」が高かったから、高貴な人しか口にできなかったようです。

日本茶に関する最初の記述として、「平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠(えいちゅう)が近江(現在の滋賀県大津市)の梵釈寺(ぼんしゃくじ)において茶を煎じて奉った」とのこと。
(伊藤園HPよりhttps://www.itoen.jp/oiocha/history/

鎌倉時代になって、栄西禅師が宋からお茶の種を持ち帰り、「お茶の効用からお茶の製法などを『喫茶養生記(きっさようじょうき)』として著したこと、そして明恵上人が自ら畑を作り、各地に広げていったことで普及していったわけです。

そして時代を経て、お茶をもっと美味しく飲む方法を考案した人が江戸時代に登場。それが当時の山城国の永谷宗円氏。今の煎茶の製法を15年かけて、苦心して開発しました。
新開発したお茶の販路を開拓するため、保守的な京都を避け、当時の文化の中心であった江戸にもっていったそうです。

しかし江戸でも珍しすぎて買ってもらえず、最後に日本橋の茶商山本屋に持って行ったところ当主がその美味しさに驚き小判3枚で買い取り、さらに翌年の購入を約束した。それを「天下一」という名前で売り出して大ブレイク!
詳細はこちらをご覧ください:
永谷宗園茶店 

現代的に言えば、販路開拓とネーミングの妙が合わさった成功だったわけですね。
良いものでも、売れる仕組みを考えなければ売れない。

なお、山本屋は「上から読んでも下から読んでも山本山」の旧名。
そして「永谷園」は永谷宗円氏から繋がるお茶屋の家系9代目が創業した会社。
日本の会社、すごいなあ〜!!
今でも日本橋界隈に残る老舗の歴史を辿れば、マーケティングの源流が見えてきそうな気がします。

会社帰りに東京駅の大丸にある都路里茶寮で、抹茶ラテを頂きながら、上の内容を調べ、一人感心しておりました。

祇園の大人気店も、今はめちゃくちゃ空いています。。狙い目です。
次は山本山の茶店に行ってみようかな。

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