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9月・自分にとって仕事とは何か

 教員という仕事を始めて半年が経過した。あと半年でとりあえず今の職場から離れることになる。


 9月ももう終わろうとしている。今、私には、仕事のモチベーションが上がってこないことに対する漠然とした虚無感が湧いてきている。おそらく9月とは、そういう時期なのだろう。夏が終わり、気温や天気が不安定になる。個人的には、片頭痛、肌や胃腸の不調に悩まされる。どこか仕事も、なんとなく流れているが、大きな問題が起こりそうな予兆がある。


 教員の仕事の多忙さにも慣れてきた気がする。いい意味での仕事のこなし方や流し方もなんとなく覚えてきたと思う。だが、一方で、授業の力をつけたい、学級経営をもっとうまくやりたい、もっと活躍したい、などというような向上心は、完全に虚無感の陰に隠れてしまっている。なんのための仕事なのだろうか。


 結局のところ、自分なりの仕事の意味合いを見つめ直す時期にきているのだろう。大学時代は、なんとなくの勢いで、勉強、学問、遊び、恋愛、バイト、サークル、ボランティア、旅、など様々なものに片足を突っ込んだり、頭までどっぷり浸かったりした。そうやって、10代後半から20代前半を過ごした。当時は、仕事はなんとなく面白くて金が溜まって遊べればいい、と思っていた。教育実習などの経験から教員という仕事は、とても面白くて、金も溜まるもので、魅力的に思えた。しかし、教員の多才さや多忙さに不安感があった。


 ここまでの文章を書いてきて自分の考えが少し整理されてきた気がする。
 私が仕事で面白いと感じるのは、仕事としての遊びができるときなのだろう。仕事としての遊びとは、自分が意図的に何かを設定してその通りに物事が進んだり、予想外なことが起こっても切り返して好転させたりして自他共に満足することだろう。教員の仕事の中で言うと、考えた通りに授業が進んで子どもが動いたり、学級内で子どもが生き生きとしたりして、教師も子どもも満足できることだろう。


 遊びとは、辞書的な意味では心を満たすことや、仕事のないことである。その意味では、仕事としての遊びという言葉は、形容矛盾である。仕事で心を満たすことは、辞書的に言えば、ないのだろう。だから、そもそも仕事で遊ぼうなどと考えていることが間違いなのである。しかし、仕事で心を満たすことは、たぶんある。例えば、子どもの姿を見て感動したりやりがいを感じたりすることである。その意味では、仕事で遊ぶことは可能である。


 教員という仕事は、私にとって遊びができそうな仕事である。だから、魅力的なのだろう。仕事を初めて半年、日々の多忙さやストレスで、なぜこの仕事を選んだのか忘れてしまっていた。教員という仕事は、難しい。仕事としての遊びができるようになるまで、数年、数十年かかるのだろう。


 この文章も見切り発車で始め、行ったり来たりのものになった。それでいい、と自分では思う。文章を書いていると、とりあえず心地が良い。何度も読み返して自分の思考が分かって、なんとなく満足する。文章を書くことも自分にとって遊びになっているのだろう。


 誰にも向けていないものだと満足できて楽しい。誰かに向けて何かをすると、誰かが自分の中に入ってきて、満足できない。仕事は、自分と他者を満足させるものでないといけないのだから、私には苦行にもなりうる。

 あと半年どうやって乗り切ろうか。

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