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Lampという純文学

みなさん、Lampというバンドはご存知でしょうか。電車に揺られている時、読書をする時、自転車でバイト先へ行く時、私の耳に流れているのはだいたいLampの曲です。このバンドを知っている人は私の周りで、片手の指で数えられる程しかいません。「音楽好きアピしてんじゃねーよ」って思うかもしれませんが、そうじゃないんです。むしろ私は、日本人の心にはLampが既に存在している、と私は主張したいのです。つまり、みなさんは自覚をしていないだけで、あなた方日本人の中にLampが備わっているのです。

最近のJ-Popへの違和感

名前は伏せますが、今の若年層に人気のJ-Popや邦ロックの曲の特徴として、

①同棲を前提としている(歯ブラシや合鍵の存在など)
②自分の過ちをどうにか覆そうともがく歌詞
③男性視点で自分の負の感情を吐露する歌詞

などが挙げられます。このように事細かな情景や感情を歌詞に綴ることで、ターゲットを狭く、同時に深く刺さるようにしているのだと思います。決してそのようなバンドやそのバンドや曲を聴いている人たちを批判しているわけではありません。むしろ私はよく聴いています。しかし、そこまで細かいことを書かれると、最初は良かったのに途中から、「また合鍵?こちとら自転車のスペアキーしか持ってないけど」となり、少し興醒めするのです。でも(逆接が多くてすみません)、実際にそのような曲が市場に多く出回っているということは事実で、多くの若者の傷を癒すために需要があるのでしょう。しかしみなさん、それらの曲の根底にある精神を忘れてはいませんか?私の主張は、多くのラブソングの歌詞のベースとなるのは、Lampの曲なのです。

Lampの綴る歌詞の抽象性 −別れを受け入れる強かさ−

Lampの曲の歌詞の多くは抽象的な表現を用いており、一見共感しがたく、前述したポピュラーな曲のように情景を想像できないものばかりです。しかし、そのような彼らの歌詞は、日本人が持つ静かで穏やかな恋心を言語化してくれているのだと私は考えます。以下、一部Lampの歌詞を紹介します。

「このままでいたいけど恋は終るのね」(“A都市の秋”より)

「いつかはこんな風に終わると分かっていた」(”さち子“より)

「見つめあっても君の瞳はいつでも僕の知らない時間を映している」(”夜会にて“より)

これらの歌詞は抽象性が高いですが、いつか必ず来る終焉を、それに抗うでもなく、後悔するでもなく、静かに受け止める心が表れています。そう!Lampは純文学なのです。かつて井伏鱒二もこう言っていました、「サヨナラ」だけが人生だと。私たちは「別れ」に対し激しい拒絶反応を起こしがちだと思います。しかし、人生は別れ無しでは動かない。別れあらずして人生の豊かさは生まれません。

今こそ、Lampを聴こう

Lampは、2023年8月には月間リスナーが200万人にも昇ったのですが、上位10カ国に日本が入っていないのです。米国、インドネシア、フィリピンが上位3カ国だそう。本当にこれは憶測でしかないのですが、コロナ禍で世界中の人々が自分と向き合う時間ができて、言語化できないような自分の感情を歌にしてくれているアーティスト、Lampにちょうどその頃多くの人が邂逅したのではないでしょうか。前述したような、静かにどうにもできない別れや悲しみを受け入れる精神を現代の私たちは忘れてしまっているのだと思います。それを思い出させてくれるのが、そうです、Lampの曲です。静かな夜に聴きましょう。自分の趣味の押し付けみたいな形になりましたが、少しでもこのバンドに興味を持ってくだされば幸いです。


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