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イドゥリとドーサの発酵学まとめ

イドゥリとドーサは主に南インドで朝食や軽食(tiffin)として食べられる食品です。米や豆を発酵させて作る発酵食品でもあります。

「発酵」については色々と謎が多いし、どこか得体の知れないところがあり、レシピにも怪しげなおまじない的要素が顔を出すこともあります。

しかしイドゥリやドーサの発酵については学問的な研究が進んでいます。それらの研究結果について知っておくことは、イドゥリやドーサの生地作りに役に立つかもしれません。

この記事は、そんな思いからイドゥリとドーサの発酵学について要点をまとめたものです。書いたのは2016年で、一度自分のブログで掲載していたのですが消えてしまっていたので、再度noteで復活させました。内容のアップデートはありませんが文体や体裁などはnote版として修正しました。

はじめに

イドゥリとドーサは主に南インドで朝食や軽食として食べられる発酵食品です。原材料は、主に米と豆(ウラド豆, black gram dal)と水で、それらをペースト状に加工し、一晩程度の時間放置すると発酵により体積が増え生地ができあがります。

生地の発酵は原材料の豆と米に付着している、基本的には野生の菌によるものです。

発酵した生地は、イドゥリの場合は最終的に蒸され、ドーサの場合は鉄板でクレープ状に焼かれることで完成します。

発酵による独特の効果がイドゥリとドーサの食品としての味、香り、食感を特徴づけている他、栄養面においても食品としての価値が高められることが分かっています (Reddy et al. 1981)。

自分でイドゥリとドーサの生地作りをやってみると分かるのですが、発酵については色々と謎が多いし、肉眼では見えない微生物が何かをしていることは想像はできるのですが、どこか得体の知れないところがあります。時には、怪しげなおまじない的な要素が現れることもあります。

しかしイドゥリやドーサの発酵については学問的な研究が進んでいて、それらの研究成果について知っておくことは生地作りに役に立つと思います。

目的と構成

この記事の目的は、過去に行われた研究の文献をいくつか引用しながら、イドゥリとドーサの生地発酵に関わる重要と思われる知見について日本語でまとめることです。

最初に、イドゥリとドーサの発酵において最も重要な役割をもつ乳酸菌について、次に酵母菌について述べていきます。さらに、発酵のために最も重要な物理環境条件として温度、菌株の重要性についてもまとめていきます。

なるべく信頼性のある文献を参照し、私見や憶測を排除して記述するよう試みました。ただし、私は生物学はおろか、菌や発酵についての専門家でないことに注意してほしいです。事実でないことや、正確でない記述があるかもしれませんので、その点は注意してください。もしその様な部分があったら教えて欲しいです。

発酵: 乳酸菌

一般に「乳酸菌」とは発酵の結果、炭水化物から乳酸を5割以上生成する細菌のことを指します。現在250種類以上の乳酸菌の存在が認められているようです。1960年代に行われた複数の研究でイドゥリとドーサの生地の発酵には少なくとも次の3種の乳酸菌が重要な働きをしていることが調べられています。

1. Leuconostoc mesenteroides
2. Enterococcus faecalis  (当時はStreptococcus属に分類)
3. Pediococcus cerevisiae

 (Mukherjee et al. 1965より)

生地には常に複数の種類の乳酸菌が共生していて、発酵の条件や段階でどの種が優占するかは変わります。

これらの乳酸菌の働きが生地の形成にどのように関係しているのかは色々な研究で調べられています。

乳酸菌の発酵の主な役割としては、発酵によって生成される乳酸による酸味。また同時に生成される二酸化炭素(ガス)とエタノールによって生地全体の質感や風味に影響を与えるといったものがあります。

乳酸菌による発酵の過程についてもう少し詳しく書きます。
乳酸菌を生物としてとらえると、彼らは炭水化物(糖質)を餌に活動のためのエネルギー(ATP)を得ています。すなわち、代謝を行っていて、その副産物として乳酸や二酸化炭素、さらにエタノールを生成します。

一般的には、乳酸菌による糖質の発酵には次の2つの経路が存在します。
1) ホモ乳酸発酵: 糖質→ 乳酸 + 2ATP 
2) ヘテロ乳酸発酵: 糖質→ 乳酸 + エタノール + 二酸化炭素 + ATP

どちらの経路で発酵が行われるかは基本的に乳酸菌の種類によって異なります。例えばヨーグルトで有名なブルガリア菌(学名: Lactobacillus delbruecki subsp. bulgaricus)はホモ乳酸発酵です。

それに対してイドゥリとドーサで活躍する乳酸菌の一種(学名: Leuconostoc mesenteroides)はヘテロ乳酸菌発酵です。

ヘテロ乳酸発酵の特徴は、その発酵の過程で乳酸の他にエタノールと二酸化炭素を生成することです。これらの生成物が生地形成に重要な役割を果たします。

実際にはこのような乳酸菌の発酵過程は、いくつかの酵素の存在と中間体を介すためもう少し複雑です。

発酵: 酵母菌

イドゥリとドーサの生地にとって乳酸菌による発酵が重要なことは先に述べましたが、1980年代の研究では乳酸菌の働きに加えて酵母の役割が注目され、調べられました。Sonil et al. 1986によると、主に次の3種類の酵母菌が現地(インド)で採取された生地や実験室で作成されたイドゥリの生地に高い割合で存在していました。

1. Saccharomyces cerevisiae
2. Debaryomyces hansenii
3. Trichosporon beigelli

(Sonil et al. 1986により)

発酵中の生地においてこれらの酵母菌は、必ず乳酸菌と共存しているようですが、乳酸菌と比べて数において優占することは無いようです。この点でイドゥリとドーサの発酵は乳酸菌による発酵が主であると言えますが、酵母菌による発酵にも一定の役割があると言えます。

酵母菌は、パンやビールの発酵でもおなじみの菌で、例えばSaccharomyces cerevisiaeという種類の酵母菌は出芽菌(いわゆるイースト)として知られ、パンやアルコールの発酵に用いられています。

イドゥリとドーサの場合、これらの酵母菌は乳酸菌と同様に原材料の豆と米の表面に付着しているものに由来します。発酵時における酵母菌の役割は、発酵の生成物であるエタノールと二酸化炭素による生地への風味や質感を特徴づけることです。

酵母菌による発酵は、乳酸菌の発酵と大きく異なる点があります。乳酸菌による発酵は乳酸を生成することが特徴ですが、酵母菌による発酵はアルコール発酵で、エタノールと二酸化炭素が生成されるのみで乳酸は生成されません。

発酵: 温度と時間

温度は発酵に限らず生物にとって最も重要な環境条件です。実際に、低すぎる温度では発酵はしないか、したとしてもその速度は遅くなりますが、逆に高すぎてもいけません。菌はそれぞれの種類で増殖するのに適切な温度が決まっています。

乳酸菌の場合、動植物や野菜などの食品にも分布するため、我々の活動する温度範囲(およそ18〜30℃)で増殖する種類が多いようです。例えばイドゥリとドーサに重要なLeuconostoc mesenteroidesが属するLeuconostoc属ついては20〜25℃とされています。

イドゥリとドーサの生地の発酵は、南インドでは常温で行われています。南インドは気温が高いため30℃以上を指定するレシピも多いです。インドにも季節があり温度は季節によって違います。

Sonilらの論文で面白い結果が示されています。ドーサ生地の酵母菌の数は季節によって大きく異なるというものです。夏と冬とでは、気温の高い夏の方が酵母菌の数が少ないという結果が示されている一方で、乳酸菌の数は夏と冬でもそれほど違いは無く、酵母菌は、乳酸菌と比べて温度環境に敏感なようです。

発酵: 酸素と栄養

ここは少しややこしいので、最初に言葉の使い方を明確にしておきます。
微生物は肉眼で見えないぐらい小さな生物のことを指します。イドゥリとドーサの発酵に関わる乳酸菌や酵母菌は微生物です。

菌という言葉を使うときには注意が必要で、生物はどんな生物でも次の3種類に分類されます。

1) 真正細菌 (Bacteria)
2) 古細菌 (archaea)
3) 真核生物 (Eukaryota)

人間を含め馴染みのある生物は真核生物で、その細胞は核膜で覆われた核を持ちます。一方、真正細菌や古細菌はいわゆる細菌類で核を持たない生物です。

さて、乳酸菌は1)の真正細菌 (Bacteria) に分類されます。酵母菌は、名前からすると1)に分類されそうですが、実は核を持つ3) 真核生物 (Eukaryota)に分類されます。カビやキノコと一緒の仲間です。

生物と空気との関係について述べておきます。生物は酸素を好むか否かという「好気性」「嫌気性」に2つに分けられます。言わずもがな我々人間は好気性の生物です。

乳酸菌を含む真正細菌生物 (Bacteria)の多くの種類は「通性嫌気性」と言い、基本的には酸素が少ない状況を好みますが、酸素がある状況でも栄養があれば死滅することはない生物です。酸素の多い空気中に保存される食品に付着した状態でも生きて入れるのはこのためで、しかし、菌の数が増えて食品を発酵させるには酸素が少ない環境になければなりません。酸素が豊富な状況では、逆に好気性の微生物が優勢となり、これはカビなどに代表される真菌類に相当します。実は酵母菌もこの仲間であるのですが、彼らは「通性好気性」と言って、酸素の無い状況でも増殖でき、アルコール発酵を行います。

イドゥリとドーサの場合、材料の豆と米を水に浸水させることで酸素が少ない条件を得て乳酸菌と酵母菌が増えていきます。

乳酸菌や酵母菌は、糖質を発酵させ代謝を行っていることは述べましたが、実際には糖質の他にも、たくさんの種類の栄養を必要とします。乳酸菌の場合、各種のアミノ酸、ビタミン, ミネラルなどです。種類によっても栄養要求は異なる様ですが、自然では付着している植物や食品などからそれらの栄養を得ていると考えられます。

発酵: 菌株の重要性

ここまでに乳酸菌と酵母菌の働き「発酵」がイドゥリとドーサの生地作りにとても重要であること、また、たくさんある種類の乳酸菌, 酵母菌のなかでも、いくつかの特定の種類の菌が関わっていること、さらに、それらの複数の乳酸菌, 酵母菌の種類が共存していることについては述べました。次に、菌の種類からさらに分類された菌株の重要性について述べます。

実は菌株についてはイドゥリとドーサについて関連した文献は見つけられませんでした。ですが、一般論として乳酸菌や酵母菌を用いる発酵食品と共通した概念です。

ところで細菌に限らず生物の種の学名は二名法によって表されます。二名法では、必ず1種類の生物に対して他と重複しない名前がつけられることになっていて、表記の仕方には規則があり、ラテン語の属名と種名をイタリック(斜体)で並記します。(noteの仕様でイタリックが表示できなかったのでこの記事では、そのまま表記しています)

例えば、イドゥリとドーサ生地の発酵に重要な乳酸菌の一つであるLeuconostoc mesenteroidesは、Leucnostocが属名で、mesenteroidesが種名にあたります。L. mesenteroidesと属名が略されることもあります。

しかし実際には、さらに細かな区分けが存在します。それは、我々ヒト(学名: Homo sapiens)という生物種においても、実際にはそれぞれ異なる個性や能力を持っていることと同じことです。

乳酸菌や酵母菌の場合、それが株(strain)にあたります。人類は、乳製品やパンの分野において特に、自らの好みに合うような菌株を特定し、それを分離し栄養を与え培養するなどして大事にしてきました。分離され培養された菌たちは同じ遺伝情報を持つクローンであり、基本的には同じ能力を持ちます。それらの利用は安定した乳製品やパンなどの製造に欠かせないものとなっています。

イドゥリとドーサについても、安定した風味を求めるのであれば、究極的には菌株をコントロールすることが必要であると考えられます。

さいごに

以上、素人ながらに文献を読み、まとめた内容です。なるべく科学的な根拠が信頼できる文献から引用したもので、一定の信頼性があり、より良いイドゥリとドーサの作成を目指すひとにとっては価値があるものと信じています。

実際に、私にとっても、このような学術的科学的な成果を知る事で、良く知らなかった発酵について具体的なイメージを持つことができました。また、それを基にいくつかの新しいアイデアを得る事ができました。しかし、同時に、実際に料理をする上ではこういった学術的な知見だけに縛られすぎてもいけないとも思いました。

特に発酵については、その現象の複雑さに対して、まだ十分な研究は行われていないと思います。さらに自然に存在する菌を利用するイドゥリとドーサについては、複数の種類と株が混在しそれらが複雑に影響を与え合いながら生地を形成していると考えられます。それらの全てのことを将来的にも我々が科学的に掌握し、理解ができるようになるかどうかは、自分にはまだわかりません。

料理をする上では、もう少し感覚的に発酵という現象をとらえて良いとも思いました。イドゥリとドーサの生地がうまく発酵をしてふわふわに膨らんだ様子をみるのは楽しいし、何よりも、発酵の複雑な風味がついたイドゥリとドーサが出来上がるのはこの上のない喜びです。

参考文献

Mukherjee S. K. et al. 1965: Role of Leuconostoc mesenteroides in Leavening the Batter of Idli, a Fermented Food of India, Applied Microbiology, 13, 227-231.

Reddy et al. 1981: Idli, an Indian fermented food: a review, Journal of Food Quality, 5, 89-101.

Sonil et al. 1986: Microbiological studies on Dosa fermentation, Food Microbiology, 3, 45-53.

森地敏樹 乳酸菌ってどんな菌?-分かりやすい基礎講座-



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