囲碁史記 第85回 金玉均と秀栄(中編)
久我山稲荷神社の「人心同」碑
明治十九年八月に小笠原諸島への流配となった金玉均は、厳しい生活に絶望しながら祖国の独立という志を失うことはなかった。
小笠原に居た頃の心境について、前回現地で詠んだ漢詩を紹介したが、もう一つ、東京都内にある石碑について紹介する。
杉並区久我山にある久我山稲荷神社は、創建時期は不明であるが古来より久我山村の鎮守として祀られ、毎年七月二十四日の夏祭りには湯立て神事「湯の花神楽」が奉納されることで知られている。
また、新撰組の近藤勇に関する伝聞も伝わっている。鳥羽伏見の戦いの後、捕えられた近藤勇は板橋にて処刑され、その首は京都へ運ばれ晒されている。この時、身体の方は板橋へ葬られたが、近藤の親族や門弟たちが埋葬された遺体を密かに掘り起し故郷へと運んだといわれ、その途中、久我山稲荷神社下で休憩したと伝えられている。
このように歴史ある久我山稲荷神社の境内には、金玉均の手書きの書を刻んだ「人心同」碑が建立されている。
日本政府により小笠原諸島へ実質的な流刑となった金玉均は、ここで久我山出身で小笠原にて砂糖栽培で成功した飯田作右衛門と出合っている。
作右衛門は幼くして故郷を離れ、故郷に残した父親へ孝行が出来ないことに心を痛めていたといわれ、自身の身の上と重ねて共感した金玉均は、体は離れていても心は一つという思いを込め「人心同」の一文をしたためて作右衛門の父へ送ったという。そして、その手紙の文字が石碑として刻まれ、明治三十二年に久我山稲荷神社へ奉納されている。
北海道へ
小笠原で生活する金玉均は、やがて病気がちとなっていった。
明治二十年二月、親友の土屋秀栄が金玉均を訪ねて来島した際、同じ船で赴任してきた小笠原島司の小野田元煕(後に内務省警保局長や各県知事を歴任し、勅選議員として貴族院に入る)は、赴任後すぐに東京都知事へ金玉均の動静を報告しているが、その中で、秀栄と碁を打って過ごしていることの他、病を発症し治療中で、いずれ帰京願いを出す可能性もあると報告している。
翌年の四月、小野田は公務で東京に出向くが、その際に金玉均より病気療養のための転地願いを託され、政府へ提出した。政府はこれを受けて小笠原よりはるかに医療設備の整った北海道への移転を閣議決定している。その理由は、治安維持のため引き続き流配の措置は継続するものの、北海道であれば東京からかなり離れていることと、朝鮮半島と緯度がほぼ同じであるので、金玉均にとっては過ごしやすい環境であろうというものであった。
ただ、南方の暑い地域から北方の寒冷地への移住は病人としてはかなりこたえたのではないだろうか。
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