見出し画像

文学に見る囲碁 清少納言と紫式部


 平安時代の文学を語るうえで清少納言の『枕草子』と紫式部の『源氏物語』は外すことができない。この頃の貴族女性には歌や琴、書といった教養を身につけた人物たちが登場してくるが、囲碁もその教養の一つであったと思われ、その情景が二つの文学作品からも覗うことができる。

清少納言と紫式部

 清少納言は歌人として名高い中流貴族の清原元輔の娘、清少納言は宮中で名乗る女房名で「清」は清原の姓に由来するが、なぜ「少納言」であるかは不明であり、本名も分かっていない。
 勝ち気で明るい性格の清少納言は、一条天皇の中宮定子に仕え、そこで才能を発揮していくが、そのため、ほかの女房から妬まれることとなる。彼女を評価した中宮定子の父、関白藤原道隆が亡くなり、その弟、藤原道長に権力が移ると、清少納言は権力闘争による誹謗中傷に耐えかね一時私邸へ籠ってしまう。『枕草子』はそうした時期に執筆を始めた宮中での出来事を書いた随筆である。その後、再び宮中へ戻り定子に仕えているが、定子が亡くなった後は宮中を去り隠棲している。

 紫式部は下級貴族ながら花山天皇に漢学を教えた漢詩人であり歌人の藤原為時の娘。紫式部は女房名で式部は父が式部丞を務めていたことに由来しているが「紫」についてはよく分かっていない。一説には『源氏物語』の登場人物「紫の上」からきているのではないかとも言われている。本名も不明である。
 幼少の頃より漢文を読みこなすなど才能を発揮していた紫式部は、長徳四年(九九八)頃に親子ほど年の差がある藤原宣孝と結婚して一女をもうけるが間もなく宣孝と死別。この頃より『源氏物語』の執筆を始めている。
  やがて藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に仕え宮中で活躍。道長の支援により源氏物語は完成される。なお、源氏物語の主人公、光源氏は道長がモデルと言われている。

 清少納言と紫式部はライバル関係であったが、それは二人が仕えていた中宮の関係を反映しているともいえる。
 紫式部は日記の中で清少納言のことを酷評するなど、仲も決して良いとはいえなかったようだ。
 次に二人の作品における囲碁の記述を見ていく。

枕草子

つれづれなぐさむもの、碁。双六。物語。三つ四つのちごの、ものをかしういふ。また、いとちひさきちごの、ものがたりし、たがへなどいふわざしたる。くだもの。男などのうちさるがひ、ものよくいふが来たるを、物忌なれど入れつかし。
 
 『枕草子』の一節である。直接女性の囲碁について語る場面ではないが、日頃から囲碁に接していたことが分かる文章である。
  
碁を、やむごとなき人のうつとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきに拾ひ置くに、おとりたる人の、ゐずまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりはすこし遠くておよびて、袖の下はいま片手してひかへなどして、うちゐたるもをかし。
 
 目上の貴人との碁の描写。貴人は直衣の紐を解きくつろいで石を置く。目下の者は居ずまいをただし碁盤から身を離して、石を持つ袖をつくろいながら着手するのも面白いとある。身分の高い人と下の人との対局風景では、しばしばこのような光景があったのであろう。
  
故殿の御服のころ、・・・人と物いふことを碁になして、近う語らひなどしつるをば、「手ゆるしてけり」「結さしつ」などいひ、「男は手受けむ」などいふことを人はえしらず、この君と心得ていふを、「なにぞ、なにぞ」と源中将は添ひつきていへど、いはねば、かの君に、「いみじう、なほこれのたまへ」とうらみられて、よきなかなれば聞かせてけり。あへなく近くなりぬるをば、「おしこぼちのほどぞ」などいふ。我も知りにけりといつしか知られむとて、「碁盤侍りや。まろと碁うたんとなん思ふ。手はいかが。ゆるし給はんとする。頭の中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」といふに、「さのみあらば、さだめなくや」といひしを、またかの君に語りきこえければ、「うれしういひたり」とよろこび給ひし。なほ過ぎにたる事忘れぬ人は、いとをかし。
 
 清少納言が、この君、かの君と言っているのは藤原斉信ふじわらのただのぶのことである。藤原道長のいとこにあたり、宰相の中将と呼ばれている。囲碁用語を男女関係の隠語に使って会話を交わしている。「手ゆるしてけり」(一目置かせる)「結さしつ」(ダメをさす)「男は手受けむ」(「手ゆるす」の反対、警戒する、固める、などの意とするも不明)、あっけなく親しくなることを「おしこぼちのぼど」(終局して石をくずす)などと言い合う。その会話を聞いて、意味の分からぬ源中将が「何のことだ」としつこく聞いたけれど、清女は明かさなかった。後に斉信から意味を聞き知った源中将は、わざわざ清女を呼び出して、「碁盤がありますか、私も打ちたい」「手をゆるしてもらえますか、斉信と同じ手合です。分け隔てなく」といってきた。清女は「誰にでもそのようでは、定めなく、不節操になりましょう」とあしらった。このことを後に聞いた斉信卿は「よく言ってくれた」と喜んだそうだ。

源氏物語

 次いで紫式部の『源氏物語』の方も見てみよう。『源氏物語』は当時の貴族の生活を元に描かれた長編小説である。その中に囲碁を打つシーンはもちろん、風景に囲碁があるシーンやその他の遊びのシーンなどが様々登場している。
 『源氏物語絵巻』全五十四帖の中で囲碁に関わりのある描写(囲碁そのものの場面や用具、用語、弾碁など類似の遊戯、囲碁の故事引用など)があるのは、「空蝉」・「葵」・「須磨」・「絵合」・「松風」・「胡蝶」・「竹河」・「橋姫」・「椎本」・「宿木」・「東屋」・「手習」と十二巻を数える。
 その中でも有名な囲碁の場面といえば、帝と中納言源薫の対局シーンと、「空蝉」の巻の空蝉と軒端荻が女性同士で碁を打っている場面であろう。

小君「なぞ、かう暑きに、この格子は下されたる」と問へば、
御達「昼より、西の御方のわたらせ給ひて、碁打たせ給ふ」といふ。
(源氏)「さて、向ひゐたらむを見ばや」と思ひて、やおら歩み出でゝ、簾垂のはざまに入り給ひぬ。
(空蝉と軒端荻の様子の条、中略)
碁打ちはてゝ、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと静かにのどめて、
空蝉「待ち給へや。そこは、持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」などいへど、
軒端「いで、この度は負けにけり。隅のところ〲、いでいで」と指を屈めて、「十・二十・三十・四十」など数ふるさま、伊予の湯桁も、たどたどしかるまじう見ゆ。

 
 空蝉と継娘・軒端荻の有名な場面である。空蝉は受領伊予介の若い後妻で十七歳の光源氏は配下である紀伊守(伊予介の子)の邸でこの人妻と泊まり合わせ強引にその体を奪った。その後も源氏は小君(空蝉の弟)に文を持たせるが空蝉は拒み続けていた。そこで源氏は小君の手引きで邸に忍び込むが、ちょうど二人は囲碁を打っているところだったというのがこの場面である。
 
(帝は)御碁など、うたせ給ひ、暮れ行くまゝに、時雨をかしき程に、花の色も、夕ばえしたるを、御覧じて、人召して、
(今上)「たゞ今、殿上に誰々か」と、問はせ給ふに、
(殿上に伺候する薫が召されること、中略)
(今上)「今日の時雨、常より殊にのどかなるを、あそびなど、すさまじき方にて、いと、つれ〲なるを。いたづらに日を送るたはぶれにても、これなむ、よかるべき」とて、碁盤召しいでゝ、御碁のかたきに、召し寄す。いつも、かやうに、け近くならし給ふに、ならひたれば、「さこそは」と、思ふに、
(今上)「よき賭物はありぬべけれど、軽々しくは、え渡すまじきを、何をかは」など、の給はする御気色、いかゞ見ゆらむ。いと心遣ひして、さぶらひ給ふ。さて、うたせ給ふに、三番に、数一つ、負けさせ給ひぬ。
(今上)「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日は、この花一枝ゆるす」と、のたまはすれば、御いらへ聞えさせで、下りて、おもしろき枝を折りて、まゐり給へり。…
(文意=帝は女君と碁を打たれる。日暮れになり、時雨の風情もおもしろく、花の色が夕日に映えるのを見て、人を呼んで「今、殿上に誰がいるか」と尋ねられた。
(薫が御前に伺候する)
今上「今日の時雨は、常よりのどかな感じがする。(藤壺女御の)喪中で、管絃の遊びも出来ず所在がない。暇をつぶすには、是がよい」と、碁盤を取り寄せて、碁の相手に中納言(薫)を召された。薫は、いつも傍近く召されるのに慣れているので、今日も「さればこそ」と思っていると、
今上「賭物があるべきだが、軽々しくは渡すわけにはゆかぬ、何を賭けようか」
などといわれる様子を、薫はどう受け取ったろうか。(賭物に女二宮をほのめかしているのに気づき薫は)気を配って控えている。打たれた碁は三番に一番、帝が負けた。
今上「残念、まず、今日のところは、この花一枝を許そう」とおっしゃる。薫は無言で階を降り、風情のある(菊の)一枝を折って御前に戻った)
(本文=匂宮、妻は宇治の中君の男子誕生、五日の産養、の条)
御産やしなひ、三日は、例の、たゞ、宮の御わたくし事にて、五日の夜は、大将殿より、屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、世の常のやうにて、子もちの御前の衝重三十、ちごの御衣、五襲にて、御繦緥などぞ、こと〲しからず、しのびやかに、しなし給へれど、こまかに見れば、いと、わざと見馴れぬ心ばへにぞ、見えける。

 
 「宿木」に登場する帝と中納言源薫の対局シーンである。
 『源氏物語』にはこの他にも女性同士の囲碁を打つシーンが多く登場している。いろんな女性たちの碁のシーンがあるが、それは必ずしも碁でなくてもよく、他の遊びで描写してもよかったのかもしれないが、そこを囲碁としたところに作者の囲碁への関心の高さ、また、当時の宮中の女性の流行を窺い知ることができる。
 また、『源氏物語』の囲碁シーンには囲碁用語が多く出てくる。それを見ても紫式部の囲碁の知識を知ることができよう。それをもって相当な棋力があったのではという判断は別であるが。

まとめ

 清少納言、紫式部ともに囲碁に興味を抱き相当の心得があったことがうかがえる。一流の知識人たちと交流するうちに自然と身のついていったものであろうか。
 このように平安時代には朝廷や公卿といった貴族の中で囲碁が浸透していったことが分かる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?