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碁盤の大きさの変遷

 碁盤は当初何路盤であったのであろうか。現在では十九路盤が使用されているが、古代では十七路盤が使用されていたと考えられている。それは多くの文献などから明らかになっている。
 十七路盤が、いつから今のように十九路になったとのか研究家の間でも議論の対象になっている。それは梁の武帝によってではないかという説を京都大学で中国の歴史地理を講じた小川琢治氏(一八七〇~一九四一)が「支那に於ける囲棋の起源と発達」という論文で発表している。

碁盤は九路盤から十七路盤へ変化した?

 「囲碁は何の道具であったか」の項でも述べたが、小川氏は囲碁の起源を易と関係付けた古来の伝承から、原始碁盤は易と密接な関係のある「方六十四」、九路盤であったと推論している。堯や舜の頃、初めに造られたのは九路盤で、そこからどんどん大きくなっていったのではという説はすでに述べた。小川氏は九路盤を四面合わせて十七路盤が成立したと考察している。中国において九路の原始碁盤が発掘されれば小川氏の考察を裏付けるものになるが、その発見はされていない。
 小川氏は同論文の「囲棋と象棋の関係及び起源」の中で囲碁の起源について象棋と関連して考えている。
 象棋は古代印度で行われ、ペルシャを経て地中海周辺に伝わったとするのが定説に近いとし、中国の将棋は六朝(三一七~五八九年)以前には遡らないとしている。
 
 印度で最初行はれた時は今の西洋将棋盤と同じ六十四方格の盤上で四組に分かれて行はれたといふのに比して考ふれば、北周時代の中国将棊即ち象戯も亦たその原始的形態そのまゝで、或は四時及び四方に因んだ四色の塗り方に武帝の創案が加はつて周武帝が遊戯そのものを発明した如く伝へられたらしくなる。
 之を要するに象戯が支那に輸入されたのは他の棋戯に比して頗る晩成に係ることは略ぼ疑を容れられぬ。
 現今日本で盛んに行はれる将棋が九道八十一格の盤となつたのは二人の敵手で差すことになつて各一王将が四種の将各二枚と歩九枚から成るものに進化したことはまた疑を容れぬ。
(中略)
 最初の盤は八道六十四路即ち方格で、両対局者の側からの第四道が境界線として重要であつたものと解される。
 若し此の如く象戯以外の諸局戯の盤が六十四方格であつたものならば、起源の同一なる囲碁に在っても、最初の盤は六十四方格を有し、棋子がその界線の交點に置かれて九道八十一路を成してゐたことが想像され、十七道の盤は之を四つ合わせたもので、簡単な遊技が複雑化して初めて現在の囲棋と略ぼ異らぬ方法で行はれることになったと考へ得られる。
      「支那における囲棋の起源と発達(上)(下)」小川琢治論文
        (支那学六巻三号 昭和七年、七号一巻 昭和八年)引用
 
 中国に輸入された象棋は四色の駒から成り盤も四道であったという。それが八道六十四路になり、第四道が境界線として重要であったというのが小川氏の意見である。そして囲碁の起源も同一とするなら九路盤が原始碁盤であったとしている。しかし、これはあくまでも小川氏の推論であり一つの仮説である。
 

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