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囲碁史記 第135回 本因坊秀哉の逝去


 昭和十五年(一九四〇)、世襲制で最後の当主となる第二十一世本因坊秀哉は、滞在先の熱海にて六十七歳の生涯を閉じる。
 今回は秀哉逝去を伝える新聞記事などの資料を基に、当時の状況について紹介していく。

秀哉逝去を伝える新聞記事

 昭和十五年一月十九日の読売新聞夕刊に、次のような記事が掲載されている。

訃報を伝える記事

本因坊名人逝く 熱海の宿に滞在中

【熱海電話】名人第廿一世本因坊秀哉氏は宿痾の心臓衰弱症急変して岩田主治医の手当も甲斐なく十八日午前六時五十五分療養先の旅舎熱海市本町うろこ屋旅館の一室で喜代(五三)夫人はじめ愛弟子らに看とられ急逝した、享年六十七、
遺骸は十八日午後一時廿分自動車で熱海をたち東京市世田谷区宇奈根町七九〇の
自邸に移された、葬儀は日本棋院によつて盛大に執行されるが日取は十八日午後三時から開かれる棋院理事會で決定する
名人は去る十五日喜代夫人とゝもに來熱、翌十六日は来訪の川端康成氏と午後から夕方まで将棋の手合せをしたほど元気であつた、名人危篤の報とゝもに村島五段、高橋、小杉兩四段、京都の吉田五段らがかけつけ名人最期の間となったうろこ屋二階菊の間の枕頭に夫人とゝもに看とったが、名人の臨終はその部屋の窓からみえる夜明けの海のやうに静かだった
前夜來病勢が亢じたので枕頭の喜代夫人、村島五段が寝もやらず看護しつづけ名人はあの温顔を夜具の襟からのぞかせて「こんとばか りはやられたヨ...」とニッコリ笑つて醫師や弟子たちの労を犒つた、一時は五〇から一二〇を数へた乱調の脈搏にも名人はつひに苦しいといふを吐かなかつた、そして静かに眠るが如く大往生を遂げたのだった

秀哉の経歴(要約)

 旧幕臣田村保永の長男に生れた保寿は、十歳のとき父に碁の手ほどきを受け、十八歳のときに村瀬秀甫の弟子になり十代にして伊藤博文、井上薫、榎本武揚などを相手にした。
 明治二十五年に本因坊秀栄の門に入り、明治四十一年に第二十一世本因坊を襲名して八段、大正三年には棋界最高の栄誉たる名人となる。
 四百年の伝統を誇る「本因坊」の世襲の慣例を破り、昭和十四年六月に日本棋院へ提供した功労は大きい。
 この他、読売新聞が主催した、大正十五年の院社対抗戦における雁金戦や、昭和八年の呉清源戦を紹介し新聞碁に新境地を拓いたと讃えている。
 そして、直門には宮坂、前田、村島、喜多らがいるが、夫人喜代子(五三)さんとの間には子供なく家庭は極めて淋しい人であったと記している。

身を切られる思い 交友四十年・関根名人の追憶

 記者は将棋の十三世名人・関根金次郎のところにも取材に行っている。
 関根は秀哉と四十年の交友があり、秀哉の引退碁が行われた際にも、初日の宴会に駆けつけている。
 兄となり弟ともなってきた関根名人にとって秀哉の訃報はあまりにもショックで、麹町三年町の自宅で語った内容が記事になっている。

「まだ俺のところへは何にも知らせがない、四十年前俺が芝にゐた時、将棋の會ではじめて會ったんだ、女房の知らないことまで知ってゐる仲だ、この暮に會つたとき八貫五百の體重が八貫目をきると聞いたが、木谷七段と大接戦をやつた、あの時からいけなくなったらしい、碁には生命を賭けてゐた男だったから・・・それだとしたら職場に倒れたとおなじだ、本望だといつてやりたい、俺とは六つも年下の江戸ッ子だが、碁と身體通りにキチンとした無口で細かい男だった、あれの将棋は田舎初段といふところかなア、そのほかには弓と撞球をやつてゐた、毎年二人きりでやった旅も駄目になった、一番長旅だった時に、あれが泥棒に着物を盗まれたが直ぐに出たよ、小ちゃいからすぐ判るんだ、酒は強かつた、さきに友だちの小久保城南、近くでは溝呂木七段と逝つたあとだけに俺も身を切られるやうに辛い・・・」

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