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囲碁史記 第88回 明治期の地方棋士の動向 信州・東北編


 江戸時代に囲碁の家元制度が成立すると、地方から江戸に出て碁を学び、再び地方へ戻って活躍するということも見受けられるようになった。
 明治に入っても、それは基本的に変わらなかったが、維新という社会情勢の変化で、中央の囲碁界で活躍しながら囲碁を辞めた人、一旦辞めながら再び戻ってきた人、中央を去り地方で活躍した人など、様々な人物が登場している。
 そこで、明治期に中央から地方へ移り活躍した棋士を紹介することとするが、最初は信州、東北方面の棋士について触れていく。

中世古才蔵

 以前、江戸時代後期に地方にて活躍した長坂猪之助について紹介した。庄内藩士である猪之助は、江戸で囲碁を学び、鶴岡へ帰った後も囲碁の強豪として知られた存在であった。
 庄内藩には、そんな長坂猪之助と並び称される囲碁の天才がいた。中世古才蔵である。才蔵は明治以降も鶴岡で活躍している。
 中世古才蔵は、文政三年(一八二〇)一月十八日に庄内藩士犬塚理右衛門の次男として生まれ、二十一歳のときに中世古家の養子となり、五〇石を相続している。
 天保十二年(一八四一)に藩主の子息の小姓となり、嘉永三年(一八五〇)には支藩の松山藩の郡代に就任し、万延元年(一八六〇)まで勤めている。松山藩では宝暦年間(一七五一~一七六四)に養子に入った藩主と家臣団の間で改革を巡る大騒動があり、以降、庄内藩から家老や郡代などが派遣されていたという。
 中世古は、九歳のころより囲碁を始め、十八、九歳の頃には長坂猪之助の指導を受けている。猪之助が中世古に宛てた書状に「二四日お出で下さりたき旨、口上にて申し上げ候、又々明日大勢参らせ候筈、まず諸君参らせざる内、一番お相手仕るべく候間、お早く四つ時(午前十時)よりそれよりお早くてもよろしくお出で下されたく待ち奉り候」というものがあり、猪之助も中世古との手合せを楽しみにし、将来を期待していた様子がうかがわれる。
 しかし、中世古が二十二歳のころに猪之助は没し、一時期碁を離れている。
 中世古が郡代を務めていた時期、松山藩は、凶作や安政の大地震で江戸上屋敷が崩壊するなどしたため、財政は危機に瀕していた。そのため中世古は金策のために庄内藩や地主などとの折衝に腐心している。
 なお、当時松山藩には、素人日本一と称された関山仙太夫がいたが、二人が対局したという記録は残されていない。
 嘉永六年(一八五三)に出府した中世古は、やがて囲碁に対する情熱を取り戻していったといわれる。
 林元美の門人となり、跡目の柏栄や内弟子の高塩有二(後の林有美)、その後には本因坊秀和や伊藤松和らに連日のように稽古をつけてもらったと記録されている。
 中世古の棋譜集「庭の落葉」全三巻には江戸での三十五人、一五一局が掲載されているが、対局者は秀策、幻庵、秀甫、亀三郎ら名立たる棋士たちであり、これらの対局により中世古は棋力を増していったと考えられる。
 中世古は、嘉永七年(一八五四)に初段および二段、翌年の安政二年(一八五五)には三段を許され、再出府した慶応二年(一八六六)には、林家と本因坊家の両家より、四段の両免状を受けている。
 慶応三年(一八六七) 十二月、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩は、薩摩藩の挑発により、幕府軍の一員として薩摩藩江戸屋敷を焼き打ち、これが引き金となり、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争へと発展していく。
 新政府軍が奥羽へ侵攻を始める中、庄内藩は奥羽越列藩同盟で中心的役割を果たしているが、中世古は機事係として他藩への使者を勤め、戦いの終末期には藩主の謝罪嘆願書を携え、米沢藩に降伏の斡旋を依頼する使者を務めるなど奔走している。
 そして、中世古は明治に入ると酒田県や鶴岡県の役人になったと記録されている。
 一方、中世古についての幕末および明治以降の対局の記録は見られなくなる。社会が激変していく中、役人として奔走していたので、囲碁どころではなかったことは理解できる。
 ただ、明治五年の『囲碁人名録』 に、本因坊家と林家の四段として中世古の名が記されていることから、依然として奥羽における重鎮として存在感を示していたことが分かる。

鈴木善人

 幕末期に信州は囲碁が盛んなところとして知られていた。信州の囲碁文化を支えた強豪として松代の関山仙太夫、塩尻の白木助右衛門が挙げられるが、もう一人、小諸の鈴木善人の存在も忘れてはならない。
 後に、「生国信州小諸」と言われる鈴木善人翁は、東京牛込の生まれで本姓は粟田、名は善之助といった。
 幼いころから碁を好み、天保十年(一八四〇)に水谷琢順の門に入ると、その後、本因坊門下となり、天保十三年、十五歳の時に初段、天保十七年には四段にまで昇段している。
 当時、本因坊門には一歳下の秀策や秀甫という天才がいて、自分の限界を悟ったのか、善之助は江戸を出て尾州徳川家囲碁指南役であった鈴木丈清の養子となっている。鈴木姓となったのはこの時である。
 安政五年に関山仙太夫と対局した棋譜が残されているが、この頃より信州とのつながりができたのか、文久三年(一八六三)に妻子を伴い信州へ入ると、小諸に居を定めている。
 そして、「囲碁以外その心を動かすに足らざる」と清貧に安んじさらに棋道に励み、多くの門人を育てていった。
 明治以降も活躍を続け、明治二十一年には五段に達する。

光岳寺
鈴木翁之壽碑

 明治二十七年(一八九四)、六十六歳を記念して、門生、有志により小諸町の光岳寺に鈴木翁之壽碑を建立。光岳寺では鈴木善人と井上保申との対局もおこなわれている。
 明治三十二年(一八九九)一月三十日に七十一歳の生涯を閉じ同寺に葬られた。

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