見出し画像

囲碁史記 第93回 明治期の大阪の棋士と方円社大阪分社


 明治十二年に発会した方円社は、村瀬秀輔という棋界第一人者をトップに隆盛を極め、会員が各地に増えていく。
 それにともない横浜分社が設立されるが、大阪ではどうであったのだろう。

江戸時代後期に活躍した中川順節

 明治期の様子を語る前に、まず幕末期の状況を紹介しよう。
 明治期に関西で活躍した棋士と直接関わっていないが、幕末期の囲碁界に大きな影響を与えたという意味で、中川順節を抜きに語ることは出来ない。
 順節は江戸の御家人の生れで、幼い時から碁を好み、長じてからは井上幻庵因碩門下となっている。悠々自適の生活を送ろうと早くから弟に家督を譲り、碁に励み五段まで昇る。
 当時、京都には福井半次郎、河北耕之助という五段の碁打ちがいたが、大阪には強い碁打ちがいなかったといい、天保十二年(一八四一)、順節が関西を遊歴した際に大阪の愛好者から頼まれて両者と対局、河北と互先四局、福井と互先二局を打って全勝する。そして、京都に対抗しようとする大阪の愛好者に説得され大阪で暮らし、後進の指導に当たっていく。これにより井上家の関西での基盤が出来、明治以降、井上家は本拠地を関西へ移す遠因となっていく。
 故郷芸州から江戸へ帰る途中に大阪へ立ち寄った安田栄斎(本因坊秀策)との対局が、棋譜が天皇へ献上され話題となったほか、「耳赤の局」で知られる秀策と幻庵因碩の対局をお膳立てするなど、関西囲碁界を盛り上げた中川順節は元治二年(一八六五)に亡くなっているが、明治期の碁打ちたちにも少なからず影響を与えている。

黒田俊節

 明治初期に大阪で活躍したのが黒田俊節である。
 俊節は天保十年(一八三九)に江戸で生まれる。名は源次郎、その後六左衛門、俊三と改めている。字は貞文、俊節は雅号である。
 父は武士であったが浪人となり江戸へ出ると、芝露月町で寿司屋「小松鮓」を開き有名となった。
 俊節は幼い時より碁を好み、十二、三歳頃には初段となり、服部正徹の目に留まって門下となる。つまり小林鉄次郎の兄弟子である。
 文久の頃には、勤王の志に目覚め、攘夷はの公家・鷲尾隆聚に仕え京で活躍。戊辰戦争では会津、新潟と転戦して軍功を挙げている。
 弱きを助け強きを挫くという江戸っ子気質の俊節は、岩倉具視や三条実美ら諸侯からも気に入られていたという。
 明治に入ると鷲尾家家令の春木義彰のもとで家扶として働き、その後大阪で商人に転身するが失敗を重ね、そのため西区土佐堀裏町で碁席を設けている。当時、大阪では碁を志す者が多く、門人が沢山集まったという。
 明治十年(一八七七)には来阪した林秀栄と十番碁を打ち、互先で六勝四敗と勝ち越し。明治十二年(一八七九)に東京へ出て、設立されたばかりの方円社で社員と対局、村瀬秀甫との十番碁では定先で三連敗し、四局目も負けているが、その一手目に「御免」と言いざま天元に打ったことで知られている。小林鉄次郎とは打ち分け、高橋杵三郎に二連勝、方円社に加わり六段を認められた。
 明治十七年(一八八四)に大阪の自宅にて逝去。享年四十六歳。

泉秀節

 明治期に大阪方円分社長を務めるなど大阪で活躍したのが泉秀節である。
 秀節は弘化元年(一八四四)に大阪で生まれる。幼名は恒治郎。秀節の生家は代々質屋を営み屋号は「大和屋」と言う。
 中川順節が家に出入りし、父與兵衛と碁を囲んでいたことから、八歳で順節より碁を学び、十二歳の時には二段の実力があると評判となったが、十五歳の時に父が亡くなると、父の與兵衛の名を継いで家業に励み、碁から遠ざかることとなる。
 十九歳の時に、再び石を手にしたが、あくまで趣味の範囲内に留めていた。段位は望まなかったものの、大阪では後に十四世井上因碩となる大塚亀太郎や𠮷原文之助と並ぶ強豪と認識されていく。
 本因坊秀和と秀甫が来阪した際に與兵衛に四段の免状を与えようとしたが辞退している。
 秀甫は與兵衛(秀節)について「古来有名な碁家は、皆東京の家元において養成し、そうでなくても一度は東京の地を踏むものだ。しかし秀節は一人田舎に在ってこれほどである。もし初めから東京で修行していたら、上手(七段)の域になっていただろうに惜しいことだ。」と評している。
その後、與兵衛は秀甫へ、五段を得られる時には「秀」の字と、師の「節」の字をもらい「秀節」と名乗りたいと告げ、秀甫は承諾している。

方円社大阪分社設立

 明治十八年、本因坊家を相続したばかりの秀甫が急逝するが、亡くなる少し前に秀節へ手紙を送り、方円社大阪分社設立を依頼していた。
 秀甫の死で、一旦この話しは途切れるが、明治二十年になり、新社長の中川亀三郎と小林鉄次郎が改めて手紙を送り、分社設立の依頼をしている。
 この時、與兵衛に対して五段の免状が贈られ、秀甫の遺命により「秀」の字を贈る事が附記されていた。つまり、泉秀節を名乗ったのはこれ以降のことである。
 秀節は秀甫の遺言のとおり、有志とともに方円社大阪分社を設立している。社長は小林鉄次郎で、秀節は副社長となり実務を取り仕切っている。
 方円社は当初、大阪伏見町五丁目に設立されたが、その後西区薩摩堀に移転、しかし、維持費がかさむため、明治二十一年には堂島にあった秀節の自宅を道修町へ移し、そこを分社にしたという。

秀節の最期

 明治三十三年、読売新聞の主催で当時の方円社社長の巌埼健造(七段)と秀節の電信碁が二局行われた。これが電信碁の始まりと言われている。結果は第一局がジゴ、第二局は白四目勝ちであった。
 それから四年後の明治三十七年三月二十五日に秀節は病のため没している。享年六十一歳。別の機会で紹介するが、同月に大阪を拠点に活躍していた十四世井上大塚因碩も亡くなっていて、大阪囲碁界は二人の重要人物を同時に失うこととなった。
 大阪分社は秀節の息子、喜一郎が引き継ぐこととなった。喜一郎は、翌三十八年に三段、四十二年に四段となっている。
 明治三十八年五月十四日、秀節の追善会が喜一郎の披露会を兼ねて開催されている。
 田村保寿、高崎泰策、中川千治、田淵米蔵らが対局しているほか、石谷広策、恵下田仙次郎、井上操子らも駆けつけた盛大なものであった。
 追善会に出席した儒学者の藤沢南岳は次の詩を贈っている。
「眞趣死生外 逸情断続間 橘中仙子楽 日月自閑々」
南岳は「通天閣」や小豆島の「寒霞渓」の命名者としても知られている。

ここから先は

726字 / 5画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?