マガジンのカバー画像

囲碁史記 No.1

25
囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.1は本因坊算砂から道策まで。
興味あるところを単体でも購入可能ですが、マガジンですとまとめて購読可能ですし金額もお得です。
¥4,980
運営しているクリエイター

#碁打

囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは

囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは


本因坊算砂とは

 囲碁史において多くの史料や棋譜が残されるようになったのは本因坊算砂が登場してからのことである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の俗にいう三人の天下人の時代である。近世の碁はここから始まったといえる。
 算砂は本因坊第一世。永禄二年(一五五九)五月、京都長者町で生まれた。本姓は加納、幼名は與三郎といった。
 與三郎は八歳のとき、後に寂光寺の開祖となった久遠院日淵の門(日蓮宗)に入り

もっとみる
囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

碁打ちの立場と浸透

 室町時代の後半、戦国時代と呼ばれる時期になると多くの「碁打ち」と呼ばれる人達が登場する。十六世紀中頃を過ぎたあたりで、末期には江戸時代へと続く本因坊たちが登場するが、その一世代前の碁打ち達である。代表的な人物として初代本因坊算砂の師匠といわれている仙也をはじめ、宗心、樹斎、庄林など多くの上手達がいる。
 当時の公家や神官などの日記類にはこれらの碁打ちが多く登場している。それ

もっとみる
囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界

囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界


江戸幕府成立直前の囲碁界

 豊臣政権の時代、碁打ちの有力な後援者は吉田社や神龍院などの寺院や大名たちであった。もちろん豊臣秀吉をはじめとする豊臣家の人々もそうであったが、大名では徳川家康、細川幽斎等があげられる。
 豊臣秀吉が慶長三年(一五九八)に没し、朝鮮侵攻中であった武将達が撤退してくると、秀吉の武将たちの間で反目や対立が顕著となっていく。秀吉が亡くなって二年後に関ヶ原の合戦が起こり、勝者

もっとみる
囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄

囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄


利玄のこと

 利玄は一世本因坊算砂とライバルとして多く対局をしている人物である。三コウが発生した本能寺の変前夜の碁の算砂の対局相手としても知られている。
 算砂と利玄の碁の力関係とはどのようなものであったのだろう。
 本因坊算砂や利玄の前半生の実像は不明な点が多い。算砂の利玄との対局記録もその一つであり、囲碁界では、初めから「強き算砂ありき」で物事が語られてきて真実に目が向けられていなかった。

もっとみる
囲碁史記 第11回 本因坊算砂の後継者

囲碁史記 第11回 本因坊算砂の後継者


中村道碩

 二世名人となった中村道碩は京都の出身。本能寺の変があった天正十年(一五八二)の生まれである。慶長十七年(一六一二)、三十一歳の時には、師である本因坊算砂と共に幕府から五十石の禄を与えられている。五十石は算砂、利玄、将棋の大橋宗桂と同じであったが五人扶持は無かった。次世代のリーダーと目されていたのは間違いないが、上の三人とは差をつけられたということなのであろう。
 井上因碩の師匠で井

もっとみる