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感情的ネグレクトな家に育つ

数年向き合った甲斐あって、今は両親を手放して愛を受け取ることができているのだが、私はいわゆるネグレクトな家に育った。
今日は、"感情面でのケアがなかった"ことについて、書いてみたいと思う。


うちは普通じゃない?

アメリカで私には…boyfriendができた。色々あったのだが、私はここで初めてunconditional loveを感じることになった。
…ってことは、これまで家庭では愛されているって感じてこなかったってこと?
それがきっかけで家族と向き合うことになり、心理学の原書を読んだり向き合うようになった。だからこの人には、とても感謝しているし、関係が続いたのは信頼と感謝があったからである。恋ではなかった。

うまく説明できない

過干渉な親の話は、よく聞く。うちは逆で、放任というか、自立といえば聞こえはいいものの、ネグレクトだったと思っている。

思い出すのは、ある週末の昼、暑いから外でお昼にしてくるね!と意気揚々に飛び出していく母と、母がいないならどこかに行くか、作るか、どうしようかな、と個々に行動する私と弟である。当時、たしか私は高校生、弟は中学生なので、大したこっちゃないのだけれど、家のdynamicsを示すepisodeである。

うちはいわゆるWell-meaning yet neglectfulというものにあたると思う。
悪意はない、だけどneglectになってしまった、という意味である。

ネグレクトの難しさは、わかりづらいこと。
暴力ではない。言葉は一見、心配や愛情に見える。もちろんそこに愛情がないわけでもない。文化の違いという観点でも、感情も愛情表現も乏しい日本では、特に問題がないようにも見える。
それでも、

  • 自分のニーズを満たしてもらえなかった

  • 助けが必要なときに、助けてもらえなかった

  • 感情表現をしたときに、それを肯定されなかった

というような、成長過程で親が鏡となって見せてくれるべきものを見せてもらえなかったことは、かなりその後の人生に影響を及ぼしていると思う。

そもそも放任な親は少数派なので、過干渉な親に困った話と比べると、情報も少ない。転校生もそうだけど。

母の場合

母は感情表現の乏しい人である。自分の感情の扱い方を教わらずに育ったから、子供の感情にも適切に対処することができないのだと思う。
ポジティブな感情も、母は味わって表現することが苦手で、もっと喜べばいいのにと思う。ネガティブな感情のときは、単純にどうしていいかわからないのだと思う。

  • 泣いていれば怒られた。

  • ほめてくれなかった。

  • 私の好きなことは、笑われた。

  • そもそも触れられた覚えがあまりないので、背中にくっつくのが、私の愛情表現だった。

で、そんな母とやりとりをしていると、傷つくことが多かったのである。

  • 門限を守らずに、家を追い出されたことも何度かあった。トイレに行きたいから、と言ってなんとか入れてもらって謝ったが、それでも母は不機嫌だった。

  • 荷物を持ってほしい、の代わりに、重い、と言い、しばらくして、持って、と荷物を手放して私に持たせるのが母だった。

  • ぶるぶるに来る前、節約したいから、一緒に住んでもいいか、と聞いたところ、断られた。もちろん私は泣いた。

  • 2人で旅行に行ったときに、"疲れている、暑い、歩きたくない"ということを表現するのではなく、突然母に怒られシャットアウトされてしまい、私はトイレで1時間ほど泣いた。

何かつらいことがあったとき、私なら手を差し伸べる。道で見知らぬ子供が泣いていれば声をかける。
うちの母は話は聞いてくれるものの、赤べこのようにうなづくだけで、共感の声をかけるとか、触れるとか、そういうことができない。
だから、私が目の前で泣いていても、「母がいるのに、泣かないで」と、仏頂面で言って、テーブルの向かいの席に座っているだけなのである。

これも、文字だけ見れば、"母がいるのに"と言っている、と受け取れる。だけど実際は、私には何も届いてこないし、母は何も発していないのである。

会話はキャッチボール、と言われる。母はこれも苦手だと思う。食卓では、どーっと喋る私に、母がうなづき続け、何も返さない、ということが常だった。
そんな母には、友達が少ない。母が原因ではないのだが、友達のほとんどは鬱になっている。これは完全に投影だと思う。

父の場合

父も同じく、感情面でのケアはできない人だった。男なので、文化的にはまだ理解しやすいだろう。

私が病気休暇に入る前、弟と3人で会っていたとき、父は自分の仕事の話を延々としたあと、仕事は?と聞いてきた。正直人も仕事もよくないし辛い、と言ったところ、
「都は国と同じ規模の予算があるから、いい場所に違いない」
の一点張りだった。その後私は病気休暇を取った。
高校がつらいと言ったときも、「一番の進学校だから、出た後に良さがわかる」の一点張りだった。
父に、やめてほしいことや文句を言ったりしても、何も返ってこなかった。その後、父の友達から、お父さんが何か言っていたけれど、と言われた。

そして、父の愛情表現は…過剰だった。

食べさせるのが愛情表現なので、外食すればいつも150%満腹で気持ち悪くなるほど食べさせられた。私はこれが普通だと思っていた。受け入れることが愛だと思っていた。一度、食べたいままに頼んで食べきれなかったことを注意されたので、この人は食べられる分しか頼まないと思っていたが、そんなことはなかった。
自分が糖尿病になってからは自分は食べられないもんだからなおさら食べてあげないとと思い、断れなかった。親父との外食が重なるごとに、私は太った。
親父もおばあちゃんも物をくれることも同じで断れなかったので受け取るしかなかった。 母はそんな状況を笑うだけで、助けてくれるような人ではない。
加えて私は、父が私の体型にコメントすること、ニヤニヤ見てくることが、嫌でたまらなかった。

親父には発達障害的傾向があると、何かを読んでいて思った。私は男とはこういうものだと思っていた。

違う世界のルール

で、そんな家庭環境で育った私は、アメリカに行ったことがものすごくよかったと思っている。
アメリカの人はほめる。Hugもする。

ドラマを見ていると、感情表現をしたり、vulnerableなことを言ったときに受け止めてもらえるのをよく見る。これが、私には、現実世界でも起こることとわかってはいるけれど、"違う世界のルール"に見えるのである。今でも。

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