旅について
アスファルトの車道と、それを見下ろすように立っている四階建ての白い宿舎。雨は降っていない。父の車のリアガラスで切り取られたその景色を、小学校3年生をもうすぐ終える私は、後部座席からじっと見つめていた。
車はゆっくりと動きだし、6年間過ごした宿舎を残して、私たちは新たな住まいへと出発した。
この何でもない車窓からの眺めの残像は、私の中での「旅」とか「旅立ち」という言葉の原体験として脳裏に保存されている。この時、悲しかったのか、寂しかったのか、わくわくしたのか、その感情は記憶から削ぎ落とされている。ただその画が、私の記憶の隅に染み付いていて、きっと、ずっと消えない。
父親は転勤族だったので、6年間の小学校生活を、私は3校で過ごした。不思議と、上記の景色以外の引っ越しの記憶は残っていない。
私は旅が好きだ。
こう言うと、世界中を飛び回ったり、日本全国の美味しいものを食べ歩くことが趣味な人間と思われそうだが、そういうわけではない。
遠くに行きたいとか、どこか有名な場所に行きたいという願望はあまりなくて、ある場所からある場所へのちょっとした移動も旅だと思っている。小さい頃から、里帰りだったり、学生の頃の1日がかりの帰省、部活の合宿や遠征など、それらは私にとっては大切な旅だった。
車窓や、新幹線の窓から眺める景色が、少しずつ変わっていくのを感じるのが好き。同じ山でも緑が違うし、土が違えば育てる作物も違う。家々の屋根の瓦の色や質感も、場所によって全く違う。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、それを体の感覚として味わうことができるのが、旅なんだと思う。
自分の住む場所を離れてみる、ということも好きなのかもしれない。
見慣れた景色は、ここは娘の通学路だとか、通勤の道だとか、位置関係やありとあらゆるものが生活にベッタリと結びついてしまっている。
自分の住む場所を離れることで、それが白紙になり、身体感覚が溶けていくような、バラバラになるような、自分がゼロになるような…。そんな不思議な感覚を体験することができる。
大人になるにつれて、言葉と価値観は結びついて、根をはってゆく。でもそれは決して悪いことではなくて、ある意味自分を守るためでもあるとも思う。
ただ、その言葉や価値観という重たい鎧を外すと、ふと体が軽くなる。無防備な状態になり、体の凝りや、自己防衛の副作用から解き放たれる、そんな感覚。
きっと、それが、私が旅をやめられない理由なんだと思う。
何かに守られているからこそ、無防備になれるのかもしれないけれど。
(2022.9月。久々に県境を越えて。心のメモ)
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