1915年生まれの祖父の話
戦争の体験者、特に最前線で戦った経験がある人ほど体験談を語りたがらないものなのではないかと、私は父方母方両方の祖父を見て思いました。
今日は父方の祖父が、戦争時の体験があったからだと推測される「嫌いな食事」について書きます。
ご法度だった丼もの
子供の頃、月に一度ぐらいですが、ひと駅離れた場所に住んでいた祖父母を両親と訪ね、早めの晩ごはんを一緒に食べる習慣がありました。
たいてい、今でいう「デリバリーもの」が用意されており、祖父母が贔屓にしていた飲食店から配達をお願いしていたようです。
(私たちが祖父母宅に到着したときには、すでにテーブルにご馳走が並んでいたので、私は配達してくれる人を見たことがありません)
お寿司、鰻重、中華料理、この3つでローテーションされていた記憶が残っています。
ある時、どういうわけかお味噌汁とご飯が弟の前にあり、祖母が
「ご飯にかけて食べる?」と聞きました。
まだ小学生だった弟は時々家でもそうしていたので、祖母の言葉にうなずき、温かいお味噌汁が弟のお茶碗に注がれました。
一瞬、場が緊張し、それを祖母が面白がるような空気を感じました。
弟は何事もなく黙々と箸を動かしていました。
いや、スプーンだったかもしれません。
そんな弟に祖父が
「そうやって食べるのが好きなのか?」と柔らかい表情で訊ねました。
今度は緊張が少し緩んだように感じました。
私が24歳の時に祖父が亡くなりました。
70代半ばだったと思います。
祖父の話を裏付ける記事
たまたま今朝(8月14日)、Yahoo Newsで横井庄一さんの記事を読みました。
その中のほんの一部ですが、こんな記述がありました。
<撃たれっ放し。アメリカの船が海の深さを測っている。どこから上陸したらいいかと。ところが日本から撃つ砲がない。こんな惨めなことはない><(米軍の)艦砲射撃が1日のうちで20時間を超えた。ご飯を食べる3回やめるだけ。どんどこ撃ちっ放し>
父の話によると、祖父は戦争中、兵舎で食事を作る役目を担っていたそうです。
畑仕事や魚釣りは好きだった祖父ですが、自らが台所に立っている姿は一度も見たことがありません。
そんな祖父が、戦時中、徴兵先で炊事係だったとは意外でした。
兵士たちは炊飯係が作った食事を、ご飯を盛った丼鉢にお味噌汁をぶっかけ大急ぎでかき込み、ものの数分で食べ終え、出て行くのを見てそれが嫌でたまらなかったとか。
食事は畑の恵みと魚や動物の命で出来ているのだから、感謝しながらありがたく頂かなくてはならない、そして、できれば家族や仲間と楽しくおしゃべりをしながら。
大正生まれの祖父はきっとそういう家庭で食卓を囲んできた人だったのでしょう。
「だからおじいちゃんは親子丼とか牛丼とか、絶対食べへんやろ。ご飯におかずがかかっているものは戦争を思い出すから嫌やねんて」と父。
父が幼少の頃も、当時、当たり前にやっていた、おかずを食べ終えてご飯が残っているとお味噌汁をかけて食べることを父はやったことがなかったそうです。
この話を聞いたのは祖父が病気がちになり入退院を繰り返していた頃だったと思います。
横井庄一さんの肉声テープで語られた内容の
「(米軍が)艦砲射撃をやめるのは3度の食事の時だけ」の一文を読み、祖父はグアムにはいなかったけど、食事の時間を最短に抑え、またすぐに持ち場に戻っていくのは日本の戦場でも同じだったのではないかと思いました。
祖父母との食事会で私が感じた場の緊張は、事情を知っている両親が、祖母が弟にお味噌汁ご飯を用意したことが原因だったのだと、父の話を聞いて納得しました。
祖母は祖父のトラウマをほとんど気にせず、孫がご飯を美味しく食べればそれが一番だと思っていたのでしょう。
お米事件
もうひとつ、父から聞いた話があります。
どこの家でもそうだと思いますが、日本では出された食事は残さず食べるのが礼儀だと教えられますね。
ご飯を残すと、「お百姓さんが一生懸命作ってくれたお米なのに」と母から怒られたものです。
父がまだ幼かった頃、遊んでいて暴れたひょうしに米櫃を倒してしまい中のお米が大量に散らばってしまったことがあったそうです。
それを見た祖父が烈火のごとく怒り、「一粒ずつ拾え!」、
「お百姓さんの苦労を何やと思っているんや!」と父が泣き出すぐらい怒鳴ったそうです。
実はこんなエピソードを聞くもっと前、私が小学校高学年だった頃に、祖父母宅の台所で弟と遊んでいて、お米をこぼしてしまったことがありました。
その時は、なぜか台所に両親も祖父母もいて何かおしゃべりをしていました。
台所の勝手口近くにお米をストックしておく高さ1メートルぐらいの箱があり、下の方にタブが付いていて一合分だけ、とか二合分だけとかそのタブを下げるとお米が出てくるようになっている箱。
うちにも昔あったよ、って方、いらっしゃるかもしれませんね。
弟と私はうっかりそのタブに足か手がぶつかり、お米がざ〜っと流れ出ました。
ここでもやはり緊張が走りました。
父が強ばった顔をし、私と弟も固まりました。
私たちは単純にお米をこぼしてしまったことをまずい、と思ったのですが、父は昔、自分がされたように祖父が私たちを叱りつけるのではないか、と思ったそうです。
祖母が「あら、ストッパーかけておくのを忘れていたわ」と言い、母が掃除を始め、私たちも手伝いました。
祖父は怒りもせず、「元気やのう」と言っただけでした。
その後の嗜好に影響が
冒頭で、「戦争の最前線にいた人ほど、その体験を語りたがらないものではないか」と書きました。
私の祖父は、決して砲火の前線にいたわけではありませんが、後方支援とも呼べる炊事係として、慌ただしく食べ物を口に押し込んで行く仲間たちの姿が忘れられない思い出となり、その後の祖父自身の嗜好に影響が出たようです。
終戦後、祖母もメニューが狭まったことでしょう。
また、カツ丼や親子丼が不可な中、鰻重や鰻丼が可だったのも私としてはおもしろいところです。
上に乗っているものが単品ならアリだったのでしょうか。
大人になった今、祖父にこのへんのことを聞いてみたいですが、もうそれも叶わない話です。
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