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「諦めからはじめたい」〜チョン・ヨンジュン著『宣陵散策』を読んで〜/前田エマ

中学時代、担任の先生は面談で、私の母にこう言った。
「エマさんは数学が苦手なので、教育委員会に相談して、別室で授業を受けられるようにしませんか?」
先生のこの提案に、私は心のなかでちょっぴり喜んだ。“特別な子”という感じがして、少し優越感のようなものを感じたからだ。
しかし母は先生にこう言った。
「数学が苦手なのは、この子の個性のひとつです。それに数学ができなくても生きていくのに困りませんし、他のみなさんと一緒で大丈夫です」

幼い頃から、算数や数学の授業中、先生やクラスメイトが話している言葉は、どこか遠くの知らない国の言葉のように聞こえることがあった。みんなが理解できる言葉を自分だけがわからないというのは、たしかに心をしょんぼりさせるものだった。

数日後、父に聞いてみた。
「わたし、あんまり勉強できないのに、なんで勉強しろって言わないの?」
「勉強しろっていう親は、自分が勉強しなくて後悔しているんだ。だからエマも将来、自分の子どもに勉強しろって言わない親になれるようにね」

良くも悪くも、こんなふうに甘やかされて育った私は、自分の心を何よりも大切にしながら生きる人間になってしまった。だから、自分の言葉に自ら傷つく日がくるなんて、考えたこともなかった。

中学三年の夏休み、人権作文の宿題が出た。作文を書くのはどちらかと言えば好きなほうだったけれど、“戦争と平和”“人権尊重”など、なんとなくの正解が決まっているものを書くことに、私は気持ち悪さを感じていた。しかし宿題をサボる度胸もない私は、9月1日の登校日の朝、早起きをして気の進まない作文を書いた。
それからしばらく経った冬のはじめ、私は全校生徒の前で表彰された。あの作文はコンクールに応募されていたようで、私は法務省から表彰状と万年筆のようなペンをもらった。目立つことも褒められることも大好きなのに、罪悪感が心を覆い、手放しで喜ぶことができなかった。

保育園の時、私はダウン症のA君といちばん仲がよかった。小学校に上がると、彼は養護学校(特別支援学校)へ進学した。それでも放課後は同じ学童保育へ通っていたので、友情は続いた。自我が強いだけでなくワガママだった私は、同級生と付き合うのがあまり上手くなく、他人のことを思いやるのも苦手だった。そんな私にも彼は優しく、一緒に遊ぶ時間がほんとうに楽しかった。しかし、学童保育は四年生で卒業だったので、それ以降彼と会うことはほとんどなくなってしまった。

私は例の作文に、彼との思い出を書いた。たくさんの時間を共有したし、彼が私の心の拠り所であったのはほんとうのことだった。そこで筆を置けばよかったと今でも後悔しているのだが、私は作文の最後にこんなことを書いた。
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彼から、私はたくさんの心のプレゼントをもらいました。なので私もこれからの人生で、誰かにプレゼントを贈れるような人になりたいです。
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この一文が、時間が経てばたつほど、私を苦しめた。私は、ほんとうにこんなことを思っていたのだろうか。“いい作文”を書くために、誰かの顔色を伺うような締めの言葉を当てはめたような気がしてならない。

彼と一緒に過ごしていた頃は私もまだ幼く、彼と自分との違いをほとんど感じたことがなかった。しかしちょうど彼と離ればなれになった頃からものごころがつき、街で出会うダウン症や自閉症の人たちに対して、どう振舞ったら良いのかわからなくなったり、避けてしまうこともあったような気がする。

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チョン・ヨンジュン著『宣陵散策』は、アルバイトで急遽、自閉症の青年の世話を引き受けることになった二十代の“僕”が主人公の物語だ。ある夏の一日を一緒に過ごす中で、“僕”は青年に対して怒りや絶望を感じたり、障害者に対しての社会の視線を目の当たりにする。その一方で、青年の持つユニークさを発見したり、少しずつコミュニケーションがとれるようになったりして、感動する体験も得る。青年と“僕”のやりとりがテンポよく描かれ、 “わかりあうことが正義”だと書かれることもなく、淡々とすすむ物語。日常からエスケープしたかのような幻みたいなふたりの時間。そのことがより一層、青年の日々に存在する”僕”が触れたことのなかった難しさや偏見を際立てる。

著者(1981年生まれ)は、幼い頃に目の前で妹を亡くし、そのショックで吃音を発症。なめらかに話せず周りの子どもたちにからかわれた彼は、幼少期をまったく言葉を話せない人のようにして過ごしたという。

私は『宣陵散策』を読んで、心が解きほどかれていくような体験をした。それと同時に、悲しさと悔しさと怒りを混ぜ合わせたような気持ちに包まれた。あの作文を書いた学生時代に、またA君と一緒に過ごす時間があったとしたら、私は作文の最後をどんなふうに終わらせていただろう。
きれいごとじゃない世界で生きている面白さを、きれいごとじゃなくてもいい正解があることを、肯定できるようになりたい。
なにかをわかろうとするよりも、言葉の向こう側に行こうとするよりも、“わからないこと”は“わからないまま”でもいいという諦めを、はじまりにしてもいいと思う。

おまけ
今回書いた中学時代の作文のことは、韓国ドラマ「サイコだけど大丈夫」「ムーブ・トゥ・ヘブン:私は遺品整理士です」を観たことをきっかけに思い出しました。そんなときに、この小説「宣陵散策」を読みました。このふたつのドラマには自閉症の人物が登場します。

ヘッダー写真 ©小財美香子
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前田エマ
1992年神奈川県生まれ。東京造形大学在学中にオーストリアウィーン芸術アカデミーに留学。モデル、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティなど、活動は多岐にわたる。また、エッセイの連載を多数手がける。
Instagram @emma_maeda
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前田エマさんがコーディネーターを務める「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会 ――本、映画、音楽を出発点に」が始まります。
第1回10月29日(金)19:00-21:00
「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」
ゲスト:くぉんよんそく/一橋大学大学院准教授)
詳細・お申込みはこちらから
http://hillsideterrace.com/events/11495/

Book Information
韓国文学ショートショート きむ ふなセレクション06
『宣陵散策』
著者=チョン・ヨンジュン(鄭容俊)
訳者=藤田麗子
http://shop.chekccori.tokyo/products/detail/1451


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