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苦しみの話を、苦しみながら聞いてくれる人  ク・スジョン 【後編】/『あなたが輝いていた時』

|あまりにも残酷すぎて、信じられませんでした

いつから韓国軍の民間人虐殺についての研究を始められたんですか?
――よもや民間人虐殺の論文を書くことになるとは、自分でも思っていませんでした。当初からベトナム戦争における韓国軍の研究をしてみたいという気持ちはあったのですが、実際に勉強を始めたところ、どのベトナム人教授も韓国軍については知らないんです。本当にどの教授も。だからベトナムの公式な記憶の中には、韓国軍は存在していないのです。

どうしてなんですか?
――ベトナム人の立場からすれば、韓国軍は米軍の一部だったからです。私は米国側でも韓国側でもない、ベトナムの人々が持っている資料に記録されている韓国軍に関心があったのです。ところが実際のところ、ホーチミン大学の歴史学科の教授の中にも、韓国軍について知っている人は全くいないのです。それどころか、ベトナムにどんな資料があるのかも知りませんでした。韓国軍のベトナム戦参戦についての論文を書こうと、あらゆる方法で資料を探していたところ、1997年にハノイ外務部国家文書保管センターで苦労して文献を一つ手に入れました。タイトルは「南ベトナムにおける南朝鮮軍隊の罪悪」。出処が書かれた部分は破れており、何度もコピーされたのか判読も容易ではない40ページほどの文献でした。

入手経路が不透明で、出処も不明な資料だと、学術的には価値がないのではありませんか?
――ですから、出処確認を何回もしたところ、1980年代の初めにベトナム政治局内に戦争犯罪調査委員会が設置され、その時に作られた資料だということぐらいまでは確認できました。いずれにしろ、ベトナムが国家レベルで韓国軍の民間人虐殺について調査した最初のものであり、統計まで出ていたのですが、当時はその資料を読みながらも、その内容が信じられませんでした。

内容が衝撃的すぎて半信半疑だったということですか?
――半信半疑ではなく……とても信じられるものではなかったのです。

 文献の内容に疑問を抱きながら1年ほど寝かせておいたところ、1998年に日本のNGOが運営しているピースボートに乗ってベトナム戦の戦争遺跡を訪ねていた作家のカン・ジェスクとキム・ヒョンアが、トゥイボ地域で韓国軍による民間人虐殺の話を聞いて大変なショックを受け、ク・スジョンの元を訪ねてきた。その時、「実はこんな資料があるんです……」と、ク・スジョンは持っている資料を初めて彼らの前に差し出した。「とても信じられるものではないが、事実確認だけでもしてみよう」と心に決めた。カン・ジェスクとキム・ヒョンアが一部の地域を直接訪ねてはいたものの、二人はベトナム語ができなかった。ク・スジョンが直接やらなければならなかった。1ヶ月の準備を終え、ワゴン車を一台借りて運転手と二人、たった一つの文献資料を片手に、そこに出てくる昔の地名を頼りに調査をスタートさせた。45日間、早朝4時から夜11時まで一日に三つもの村を回る強行軍だった。観光地ではないところに、外国人が現れてインタビューをしているからと、公安警察に引っ張られ、留置所に入られたことも何度もあった。

村の人々の反応はどうでした?
――虐殺から30年ぶりに韓国人がやってきたと村に噂が広まって、私の行く先々に100人以上の人々が駆けつけてきました。みんな一斉に「カイ、カイ!」と言いながら。「カイ」は「陳述する」という意味で、少し公式的なニュアンスがあります。

虐殺直前に撮影されたソンミ村の女性と子どもたち

自分が陳述したいという意味ですか?
――私はただの学生であり、論文のためのインタビューだと言っても、彼らはとても公式的に受け止めていました。この調査で自分の名前が出なかったり、証言が抜け落ちたりすれば、後でなんの補償も受け取れないかもしれない、そんなふうに考えたのでしょう。でも私がすべての人の話を聞けるわけないですよね。それに記録してくれる人もいないし、写真も撮らなければいけないし。しかも、そこは中部ベトナムで、ベトナム語は中部語、南部語、北部語とそれぞれ違うんです。その時初めて中部に行った私にとっては、もう別言語のようなものだったのですが、その内容がどうして聞き取れたのか、私にもわかりません。人は言語でだけ話すのではないから……目でも話すし、切羽詰まればジェスチャーを使ってでも話しますよね。

数十年の間、埋もれていた血なまぐさい話があふれ出てきた。民間人虐殺と強姦、嬰児えいじ殺害と放火、死体遺棄……カインホア省から始まり、フーイエン省を経て、クアンナム省まで、韓国軍の駐屯地に沿って北上しながら、数千人のむごたらしい虐殺談を聞き続けていくうちに、「もうこれ以上はどうしても無理だ」と叫びながらへたり込みたいほどになってしまった。

精神的にもたなくなってしまったんですね。
――時間がないので一人につき5分から10分ほど聞き取りをするのですが、その時間内で聞けるのはもうお決まりの話です。韓国軍は「兎狩り」をして村人を集め、機関銃を撃ちまくり、手榴弾を投げて皆殺しにした、そうやって私の家族は何人死んで……とそんな話を何千回も繰り返し聞いていたら、結局全ての人が同じ話を反復しているような感覚に陥りました。情緒的な部分だけではなく、物理的にも本当に耐えられないことでした。

ビンディン省の博物館で韓国軍に関連したアーカイブを発見したのは大きな収穫だった。苦労して採録しようとしていた内容が一目瞭然に整理され、犠牲者の名簿と虐殺の動線まで記録された資料を見てからは、ちょっと「要領よくやること」を思いついた。それからは、村に入ったらノートを回してそれぞれの虐殺被害を書いてほしいと言った。文盲が大半の村人たちが三々五々集まって、頭を突き合わせてのろのろと陳述書を書いた。

それで苦労が軽減されたのですか?
――それでも一人か二人は事例を聞かなければと思って「二人だけ話をしてください」と言ったら、また「カイ、カイ」となって、ある人が「うちの家族は6人死んだのです」と言ったら、あちこちから「うちは13人」「17人」……そんなふうに声が上がるのです。その時、私も何気なく「え、17人? では話してください」と言いました。

最大の被害者にまず関心がいったのですね。
――そうやって話を聞いていたら、一番前でずっと私と目を合わせようとするお婆さんがいたのです。私を無理矢理つかまえてでも話したそうだったので、わざと視線をそらしました。夜10時半ぐらいになって、「私はそろそろ市内に戻らなきゃいけないので」と挨拶をして急いで村を出ました。ワゴン車を止めてある道路までかなり歩くのですが、そのお婆さんがずっと後をついてくるんです。夜も遅いし、ここで引き止められて話を聞くなんて無理なのに……私が走ればお婆さんも走る、私が止まってお婆さんのほうを振り返ると、お婆さんも止まって知らん顔をしている。それはもう大変気まずいわけですよ。でも私はそのまま行きたかったのです。ワゴン車に乗ってドアを思いっきり閉めて出発しようとしたら、その年老いたお婆さんが車の後ろを走ってくるのが見えたのです。

それで?
――仕方なく車を止めて、お婆さんに聞きました。「何なんですか、いったい? どうして?」。そうしたら、また何も言わないのです。

困りますね……。
――「本当にもう行きますから。後ろも見ないで行きますからね」と大きな声で叫んで再び出発したら、また、よろよろとついてきて、車を止めて聞くとまた口を閉ざして……。そんなことを何回も繰り返しているうちに、ものすごく腹が立って車から飛び降りました。そして、無意識にお婆さんの胸ぐらをつかんで「私に言いたいことがあるなら早く言いなさいよ。とても遅くなったし、私も本当に疲れているんだから……」と言った時に、お婆さんが言った言葉が……。

何だったんです?
――私は一人なんですが……。

一人?
――「私は一人だけ死んだのですが、話してもいいか?」と。その一人というのはお婆さんのたった一人の子どもだったのです。その状況にまた腹が立って、お婆さんに向かって声を張り上げました。「あなたにとっては、その一人がすべてなのに、どうして話せないんです? どうして?」

あ……。
――道端に座り込んで大声で泣きました。無意識に片方の靴を脱いでそれで地面を叩きながら大泣きして……どれほど泣いたかわかりません。しばらくして横を見たら、お婆さんも私と並んで片方の靴を脱いで地面を叩いて泣いていたんです。その時にお婆さんに言いました。「お婆さん、ごめんなさい。二度とあんなこと言いませんから」。そうしたらお婆さんが言ったのです。「嬢ちゃん、わかっているよ。遠くに帰るのだからもう行きなさい」と。そう言われて帰ってきたのですが、その時に思ったんです。私が修士をとって、博士をとって、教授をしていたら、こういう話はもっと聞けなくなる。勉強を中断しよう。これからは、こういう人たちの話を「聞いてあげる」仕事をしなければと。

 韓ベ平和財団常任理事ク・スジョン先生の歴史の前に立った20年
(第1回)

ク・スジョンは以後、韓国の大学からの招聘しょうへいの誘いも拒絶した。その時から今にいたるまで、ク・スジョンは虐殺被害者の心の奥底に堆積した苦しみの記憶を聞き続けることに自分の全てを捧げている。聞くことはつらいことだ。380人が虐殺された高地の村で、まだ名前もつけられないまま亡くなった50人あまりの嬰児の話を聞きながら、両足がちぎれて膝で這いながら、全身に火傷を負って死にゆく幼い娘を捜したという母親の話を聞きながら、ク・スジョンはその人たちの涙を黙々と自分の中に溜め込んでいった。

その人たちの話が私の中に入ってくると、まるで悪いものに取り憑かれたように身体の具合が悪くなる。食べたら嘔吐し、発熱し、悪寒がして、頭が割れそうなほどのひどい頭痛に襲われ、身体の節々が痛くなる。話を吐き出す彼らもつらいし、その話を受け止める私もつらい。

(2014年5月14日、ク・スジョンのフェイスブックより)

|韓国の地顔を見ることができる国

話すことを通して、その人たちが得られるものは何でしょうか?
――1999年に初めて村に入る準備をしていた時、京東キョンドン市場*¹に行きました。当時、高麗人参の卸売市場では人参茶100パックが2,000ウォンぐらいだったと思います。ワゴン車を借りて出発する時に、人参茶をいっぱい積み込みました。インタビューするたびに、村の人たちに人参茶を配ったのですが、その後にまた村に行ってみると、私が持っていった人参茶が万病の薬になっていたのです。人参茶にベトナムの酒を混ぜて、頭が痛ければ頭に、腰が痛ければ腰に塗るんだと、そうすれば何でも治るんだと……。そこで、韓ベ平和公園*²の竣工式の時にハンギョレのコ・ギョンテ記者に、本当によく効く高級人参茶を買ってきてくれと言いました。効果があるというのだから、もっと良いものを買ってあげたかったのです。竣工式が終わった後で再訪してみると、たくさんの人たちが、この人参茶は偽物だと、全く効かないと言うんです。これの方がずっと上等なのに……。虐殺から約30年目にして初めて韓国人に会って胸の内を話したら、頭が痛いのも少し楽になり、腰が痛いのもましになった気がすると。人参茶が万病の薬だったわけではないんです。私に話をすることで自然と治癒されていく、その過程だったような気もします。少なくとも私はできる限り一生懸命、あの人たちの話を聞かなければいけないと思いました。

*¹ ソウルにある食材や韓方ハンバン薬の卸売市場。

*² 2003年にフーイエン省に造成された慰霊のための公園。ハンギョレ新聞社が中心となり公園建設のための募金活動が行われた。

この活動をしながら、身の危険を感じたことも一度や二度じゃないですよね? 1999年に『ハンギョレ21』が被害者のための募金運動とともに連載を始めたベトナム戦民間人虐殺の記事に怒った「大韓民国枯葉剤戦友会」*³がハンギョレの社屋に乱入したこともあったし、2000年に済州チェジュ人権学術会議であなたが発表するのを阻止しようと、一部のベトナム従軍兵士たちが押しかけたこともありました。
――ハンギョレへの乱入があった日、韓国にいる母親から電話があって、「大変なことが起きた」と。彼らは家の近所中に赤いペンキをかけて、うちの前には塩酸のドラム缶を三つも置いていったと言うんです。私のために家族は長い間苦労しました。私もベトナムにいながら、その頃には6ヶ月ごとに住むところを変えて、韓国人の居住地域には一歩も近づけませんでした。今は少し変わったようですが。

*³ ベトナム戦争に従軍した退役軍人たちの団体。米軍が散布した枯葉剤の被害者組織でもある。

チ・マンウォン博士のような保守論客は「ク・スジョンがベトナム民間人虐殺論をでっち上げている」と猛批判しながら、「韓国軍タイハン*⁴はベトナム住民に親切であり、支援の温かい手を差し伸べたと記憶されている。ベトナム人も問題にしない、国益を損ねるようなテーマをなぜ提起するのか?」と問いかけました。
――ベトナム人たちが黙っていたわけではないのです。小説『遥か遠いソンバ河』*⁵の背景になったフーイエン省では、1976年に二つの「憎悪碑」が建てられています。我々の朝鮮戦争直後を思い出せばわかるように、まさに食べることもままならない状況です。それにもかかわらず、長い戦争を終えて村に戻ってきて最初にやったことが、韓国軍に対する憎悪碑を建てることだったのです。韓国軍が村にやってきて、どんな虐殺をしたのか。絵と文字、図表を使って細かく記録し、ベトナム政府も建立のためにセメントを支援しました。ベトナム政府は過去を乗り越えて未来に向かおうと言いますが、そういった憎悪碑や慰霊碑の建立を止めたことはありません。実際に民間人虐殺の資料はアーカイブに残っているわけですし。公式的な記憶として保管してあるのです。

 *⁴ タイハンは大韓のベトナム語読み。ベトナム人は戦争中から韓国兵をこう呼んでいた。

*⁵ 1977年に発表されたベトナム戦争をテーマにした作品。著者のパク・ヨンハンはベトナム従軍兵士であり、本人の戦地体験がベースになっている。1993年にはテレビドラマ化もされた。

我々の恥部をほじくり返すことは国益に反するということについては、どう考えますか?
――絶対にそんなことはありません。たとえば韓国の「ナワウリ」という市民団体がホーチミン大学の韓国語学科の若者たちの集まりである「グッウォル」とともに過去10年間、ベトナムの虐殺地域を回って村を援助する活動をしてきました。そこで寝食をともにしながら、家を建てて橋を架けて道を作って……。そういう地域は韓国人が行くと村人たちが飛び出してきますよ。みんなが競うように自分の家に来てご飯を食べていけと。それに対して、何の活動もできていない地域は、未だに敵対的です。村の子どもに飴を持たせようとしても、韓国人があげたものは受け取らない。最近、ベトナムで反中国デモが行われて21人の死者が出ました。韓国企業も中国企業に間違われ、現地企業が大きな被害を被ったそうなのですが、現場では、長年にわたって積もり積もった(韓国に対する)感情が、これを機に爆発したという声もあります。人々の記憶と感情は抑えつければ抑えつけるほど、反発も大きくなります。

いったい私たちにとって、ベトナムはどんな意味をもつのでしょう? なぜそんなにベトナムの問題にこだわるのですか?
――私は、韓国の地顔に出会うことができる国がベトナムだと思っています。私たちが抱いていたいくつかの幻想を打ち砕いてくれる。白衣の民族、平和を愛する民族、他国を侵略したことのない民族という歴史感をもった韓国人に、私たちの地顔を見せつけてくれるんじゃないでしょうか。私たちもひどく侵略的であり、非平和的な行動をすることがある。だから自らそれを警戒しなければ、残忍で非人道的な罪を犯してしまうかもしれない。それをベトナムが見せてくれたのです。

映画『記憶の戦争』(イギルボラ監督)予告編。近年、ベトナム戦争中に韓国軍によって行われた民間人虐殺の真相を明らかにしようという動きが強まっている。

ベトナム戦争に参戦した対価として、韓国軍が血を流しながら稼ぎ出したお金で経済開発計画を推進し、産業化を進めることが出来たと言われますよね。
――韓国がベトナム戦争を通して得た特需は10億ドルだというのですが、日本はたった一人の兵士も派遣することなく、韓国よりもさらに大きな利益を得ました。経済的理由が重要な動機だったと言っても、あんなにたくさんの若者を戦場に行かせて、血に塗られたお金を稼いで成し遂げたことが、実際にそこまで価値があることだったのか。残された禍根はあまりにも大きく、その引き換えに得た国益というものに見合う価値があったのか。私はその点については、同意することができません。

韓国政府とベトナム政府の双方が、この件を公式的に明らかにすることに及び腰です。消耗しませんか?
――虐殺問題を追及するためにお墓を回って亡くなった人の話を聞いたり、生き残りはしたものの、まるで生きるしかばねのようになってしまった人々の話を聞くのは、簡単なことではありません。巫病ムビョン*⁶に罹ったみたいになった経験も一度や二度ではありません。どんな形であろうとも吐き出さなければならず、その話を伝えてほしいと私におっしゃるのですが、10分の1も伝えきれていないと思います。伝えられなかった話を私は抱えきれないほど溜め込んでしまっている。答えは見つかりません。ただ絶対に忘れてはいけないし、どんな形でも機会があれば話を聞き出して、それらの話をつなげていこうと思っています。

*⁶ 韓国文化の中にはシャーマニズム的な要素が色濃く反映されている。死者の霊にとりつかれて身体を悪くすることを巫病という。

2017年、ク・スジョンは長いベトナム生活を終えて帰国した。韓ベ平和財団*⁷の常任理事として活動するかたわら、2018年4月には「韓国軍による民間人虐殺真相究明のための市民平和法廷」に証人として出席して証言している。市民平和法廷(裁判官キム・ヨンラン、イ・ソクテ、ヤン・ヒョンア)は2日間にわたる模擬裁判の最後に、「被告である大韓民国は原告(虐殺被害者)らに国家賠償法の基準に基づく賠償金を支給し、原告らの尊厳と名誉が回復されるべく、責任を公式に認めること」という判決を下した。市民平和法廷の意味について韓ベ平和財団は次のように説明している。

市民平和法廷は韓国社会の名誉を考える運動です。自らが犯した過ちをはっきりと認め、心からの謝罪をし、全ての責任を果たしてこそ成熟した共同体のあるべき姿といえます。日本政府に対して日本軍「慰安婦」問題についての法的責任を認めろと訴える韓国社会としては、ベトナムに対する責任も当然ながら果たさなければなりません。韓国社会がこの責任を果たしてこそ、ベトナム戦従軍兵士の方々が経験した壮絶な苦しみに対して当然なされるべき補償と礼遇も、さらに重みのあるものになるはずです。

(2017年11月21日)

*⁷ 2016年に発足したNGO 。ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺に対する反省と真相究明、謝罪を通じて大韓民国とベトナムの間の平和と友好を築くことを目的としている。

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著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。

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