雑感:ポンペイウスの戦略とイタリア戦役

https://twitter.com/cuniculicavum00/status/1374671518240677888?s=20

1 冬季作戦であることに注目

かつてモムゼン(p.326; 336)は、開戦が春まで延びていれば、ポンペイウスの方が攻勢に出てイタリアとスペインからガリアを挟撃しただろうと推測しました。

Veith(1906, pp.233-235; p.246)は、それがポンペイウスの最初の作戦計画であって軍事的にも常道だとし、カエサルが真冬の来る前に侵攻したことの驚きを強調しました。

Adcock(638f.)は、当時の暦が太陽暦換算では数週間進んでいたことを指摘し、カエサル方兵士の戦意を過小評価したことなどと相まって、早期開戦は反カエサル派の予想外であったとしました。

しかし、Holmes(vol.2, p.328; vol.3, 361f.)がVeithに史料的根拠がないことを批判してポンペイウスが初めからローマ・イタリア放棄を考えていた可能性を指摘していたように、次第にポンペイウスがカエサル側からの攻勢を考慮していたとする見方が広まっていきました。

とはいえ、これほど早く戦端が開かれるとまでは考えていなかったとする見解が多いでしょう。
cf. Seager, p.152, 154; Leach, p.174

改めてRidley(pp.149-152)は、カエサルが冬の初めにわずか1個軍団(第13軍団)で攻めよせて成功するとまでは予想できなかっただろうと述べ、暦の進みに注意を喚起しました。

Raaflaub&Ramsey(p.180)によると、当時の1/10は太陽暦だと11/23に相当します。

カエサルが第8、第12軍団を呼び寄せることにした12/8は10/23です。

Eckstein(2017, 109f.)は、11月はまだアルプスが完全に閉ざされてガリアから分断されない時期であり、冬が来る前にカエサルは前進を決断したのだとします。
つまり、カエサルが開戦を視野に入れたのはかなり早く、冬前に動き始めて真冬の作戦を覚悟したという見方です。

Raaflaub&Ramsey(p.181)は、2/8(太陽暦12/20)に合流する第12軍団の北イタリア通過を12月とします。
(合流は太陽暦12/23の可能性もあるとしています)

冬営地をハエドゥイ族の領域として、冬は通行が難しい山地ではなく、アラル(ソーヌ)川からローヌ渓谷沿いに海岸に出て、現在のジェノヴァ付近を通って来たのだろうとしています。
1日35kmの強行軍37日と休日7日として、1,285kmを踏破したと推定しています。

同じく、2/17(太陽暦12/29)に合流する第8軍団も、強行軍41日と休日8日で1,425kmを進んできたと考えています(p.182)
(合流は太陽暦12/27の可能性もあるとしています)

冬の始まる前に軍事行動の可能性を見据えた準備に着手したとしても、ぎりぎりのタイミングであったことが分かります。

さらに大胆な仮説もあります。

Stanton(82f.)は、カエサルが11/15(太陽暦9月前半)をデッドラインとして軍事的準備を進めていたのではないかとまで推測しています。

H. M. Ottmerが提唱し、C. T. H. R. Ehrhardtが注目した考察に基づいています。

まず、軍団兵は1日25kmの行軍を休日2日で20日以上は持続できないと想定し、冬の悪条件を考慮すると両軍団の出発地はアルプス以南でなければならないとします。

つまり、各軍団がアルプスの向こう側のガリアで冬営していたとするカエサルなどの記述を否定します。

そして、キケロの書簡(Att. 6. 9. 5;  7. 1. 1)が記している、カエサルが10月中旬にはプラケンティアに4個軍団を集中していたという噂が本当だったのではないかとしています。

すなわち、両軍団と前52年にガリア・キサルピナで徴募していた22個大隊※がすでにプラケンティアに待機しており、最初にルビコン川を越えることになる第13軍団と合わせて計5個軍団という大規模な兵力の裏付けをもって開戦したという仮説です。

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※Stanton達の議論はともかく、イタリア戦役でカエサルが率いた22個大隊の正体については、Keppie(p.131)による、有名なカエサルの非市民軍団である第5軍団「ひばりAlaudae」を含んだ婉曲表現とする説などがあります。
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もっとも、この仮説の信憑性を判断するには慎重であるべきでしょう。

行軍速度に関するシミュレーションは、想定する条件次第でかなり変わってきます。
比較的少数ですし、敵地を進むわけでもありません。通常の徒歩行軍であったのかも不明だからです。

しかしながら、冬季における軍事行動の難しさについては、改めて注目しておくべきだと思います。

糧秣確保の困難、特に牧草不足に加えて、イタリアは雨雪の時期であること、ローマの緯度でも日出から日没までの可照時間が夏は平均14.5時間であるのに対して冬は9.5時間しかないことなどは、作戦行動に重大な影響を与えたでしょう。

そのうえで、Raaflaub&Ramseyの距離などを付した詳細な行程表(太陽暦換算付)を見ても分かるように、カエサルは約60日という目を見張るほどの短期間でイタリア半島を縦断する戦役を完遂しています。

冬季における作戦機動の困難という問題は、軍事行動を優先して速戦即決を目指すのであれば、ガリアでの経験も踏まえて、克服可能な範囲内のものでした。

Veith(1913, p.9)は、コルフィニウムでの行軍に関する評価において、冬とはいえ「陽光のイタリアsonnige Italien」では特別な困難はなかっただろうと述べています。

ただし、カエサルは、必ずしも最初から一本道にイタリア全土の占拠と国政の掌握、すなわち反カエサル派の軍事的な撃滅を企図していなかった可能性があるという点も考慮する必要があるでしょう。

例えば、Hillman(251f.)は、反カエサル派の兵力動員が完了する前の一時的な戦力的優位に基づいて、カエサルは早期開戦により先手を打ち、敵を守勢に追い込んだとします。

しかし同時に、ルビコン川を渡河した時点におけるカエサルの最初の計画は、ウンブリア等を占領して有利な前進防御の態勢※を築くことであり、交渉か侵攻かは事態の進展に応じて対処するつもりだったのではないかとも主張しています。

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※ちなみに、ルビコン川以南に進出してアリミヌムを押さえることの軍事的価値については、かつてのガリア人、ハンニバル、ハスドルバルによるイタリア侵攻とローマ人による迎撃の経路を考えると分かりやすいと思います。
ガリア・キサルピナ(ロンバルディア)から直接アペニン山脈を越えることなく大軍がイタリア中・南部に抜けられるのは東海岸沿いの平地だけだからです。
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Hillmanは、根拠として次のような点を挙げています。

①イタリア住民の支持を得られるかは不透明であり、用心深く、事前に少人数をルビコン川以南に浸透潜入させている。

②イタリア侵攻後、大隊単位で兵力を各地に分派した配兵は、各街道を遮断して守勢をとったと解釈できる。ローマからの中間地点を抑えたのは、ローマ進軍を考えていなかったからだろう。一方、カッシア街道とフラミニア街道に比較的大兵力を割いている以上、イタリアの東海岸沿いに南下突進する企図はなかったのではないか。

③イグウィウムで住民に受け入れられたのを確認して以降、急速な南下侵攻を始めており、明らかにより大胆な方向への計画の変更があったのではないかと考えられる。

④合流を命じていた第8、第12軍団を待つ必要性があったろう。

また、Sirianni(pp.225-227)など、イタリア戦役中にカエサルが提案した和平案は真剣なものだったのではないかとする見解もあります。

つまり、電撃的に見えるカエサルの軍事行動は、交渉をはじめとした政治的な判断による進撃の緩急という制約の中で行われた綱渡りであったようにも思うのです。

ルビコン川を渡った後も、凍えゆく冬の曇天に急かされつつ、幾度もサイコロを振らなければならない決断を強いられたのかもしれません。

さて一方では、季節という自然の摂理は、敵味方を等しく制約します。

ポンペイウスは、ドミティウスに宛てた2/16付けの書簡(Cic. Att. 8. 12c. 2)において、戦闘を開始できない理由として、軍勢の士気とともに「季節」を挙げています。

この記述からは、当時の軍事的常識と両者の性格や状況の相違を読み取ることができて面白いと思います。

戦闘は避けたポンペイウスですが、カエサルに比べて決断力や行動力が鈍かったというわけでもありません。

イタリアを退去するに当たっては、ブルンディシウムからギリシアへと多数の兵員に冬の海を渡らせています。

太陽暦でいうとまだ1月であって、これも危険を伴う難事業だったと言えるでしょう。

11月から3月にかけては、ウェゲティウス(Veg. Mil. 4. 39)が言うように「海が閉ざされるmare clausum」時期でした。

前49年1月から3月にかけてのキケロの書簡(eg. Cic. Fam. 16. 12. 6; Att. 7. 20. 2; Att. 8. 3. 5; Att. 8. 16. 1)にも、冬海の荒天における船旅への心配や手紙の遅配についての記述が散見されます。

また、前84年には、キンナがまだ冬の間に兵士にアドリア海を渡らせて2回目の船団が嵐で難破し、反乱を招く一因となったこともありました。
cf. Lovano, p.109

両者の行動が計画的なものであったのか?
考えるにあたっては、カエサルの焦りとポンペイウスの驚きを念頭に置いておきたいと思います。

Goldsworthy(2010, p.220)は、カエサルが結果的に勝利したからといって彼が多くの点で不利であったことに盲目であるべきではないとします。

ポンペイウス達がイタリアを防衛する準備ができていなかったのは、通常の戦役シーズンのずっと前である1月に侵攻するとは誰も思わなかっただけでなく、カエサルが政治的に折れるだろうと期待していたからだとして、複合的な要素の織りなした意外性を指摘しています。

古代の戦争は、自然環境の制約の下、春の訪れとともに始まり冬前に終わるのが一般的でした。

VeithやLabisch(99f.)はカエサルの諸戦争に「戦争の季節性の超克」が見られるのではないかと示唆しています。

もちろん、絶対評価で見ればローマ軍が季節性を超克しつつあったというのは言い過ぎでしょう。cf. Erdkamp, pp.152-155

しかし、周辺諸民族が軍事行動をとりにくい時期でさえ戦うことができた共和政末〜元首政期のローマ軍の能力は、当時としては相対的に優位を与えるものだったとは言えるかもしれません。cf. Goldsworthy, 1996, p.37; 1998, p.202; 2007, p.103

では、ローマ軍同士が激突すればどうなるのでしょうか?

そうした観点からも内乱期は興味深いと思います。


2 ドミティウス・アヘノバルブスは愚かだったか?

ポンペイウスの後退要請に従わずにコルフィニウムで抗戦しようとしたドミティウスは、頑迷、愚昧な反カエサル派の代表というイメージがあります。

しかし、Fritz(p.156)によると、ポンペイウスはイタリア放棄案について2/16に至るまでドミティウスに知らせておらず、むしろ軍勢が集まり次第カエサルと戦うことをほのめかしていたとも考えられます。

コルフィニウムでの軍勢の喪失は、ドミティウスの過失というよりポンペイウスのせいとも言えるのです。
cf. Fritz, p.145

Burns(pp.83-89)は、ドミティウスはポンペイウスと同格の指揮官であって手に負えない部下といった存在ではないと再評価しました。

さらに、カエサル迎撃に精力的に動いた唯一の存在であり、ローマへの接近経路とアプリアへの進路を扼すコルフィニウムに工事を施して拠点防御を試みるのはローマへの道を開放して開豁なアプリアに後退するより軍事的に見ても有利だったと指摘しています。

cf.  Leach, p.180;  コルフィニウムの価値と地勢については、Veith, 1913, pp.6-11; Dodge, p.417;  アプリア(及びルケリア)の地勢については、Fritz, p.163

Veith(1913, p.4)は、ドミティウスの計画にはリスクがあり、一部誤った前提に立ってもいたが、後世に烙印を押されたほど軍事的にナンセンスなものではないと評しています。

Ridley(p.137)も、カエサルがコルフィニウムを取らなければならなかったことはドミティウスが戦略的に有能だったことを示しているとしました。

Burnsは、ドミティウスが兵士を残して逃亡しようとしたというカエサルの叙述はかなり脚色されているのではないかとも疑っています。

この辺りのことは、反カエサル派が一枚岩ではなく同床異夢の関係であったことを改めて浮き彫りにしています。

Burnsは、ドミティウスがコルフィニウムに留まることでポンペイウスが来援せざるを得なくし、カエサルと戦おうとしたのではないかと推測しています。
cf. Seager, p.158

ドミティウスがイタリア放棄案にうすうす気づいていたとしたら、ポンペイウスの東方兵力でイタリアを奪回する場合、その後のポンペイウスの圧倒的支配に服することになると懸念していたのではないかというわけです。

もっとも、軍隊指揮官としてのドミティウスの力量自体は高いとも思えません。

Adcock(p.642)は、アルバとスルモに兵力を分散したうえ橋の破壊も遅れるなどドミティウスの戦術的な不手際を批判し、たとえポンペイウスの来援があったとしても敗北は変わらなかっただろうと述べています。

とはいえ、行軍など冬の作戦自体は可能であっても、本格的な攻囲戦をはじめるのはさすがに難しいのだということは念頭に入れておきたいと思います。
cf. Erdkamp, p.69; p.151

カエサルとしても、万一、真面目な抵抗を受けた場合には、攻勢が頓挫する可能性が脳裏をよぎって冷汗をかいたかもしれません。

あっけなく崩壊したコルフィニウムの籠城でも、カエサルは約60日間のイタリア戦役のうち7日間を費やしています。

3 誰のための戦略か?

ポンペイウスのイタリア放棄が軍事的に合理的だとする見解には説得力がありますが、計画的なものなのか、それとも状況に強いられて実行されたものなのかには議論があるところです。
cf. 簡潔な研究史は、Ridley, pp.135-140

実際の経過をみるとポンペイウスには曖昧な態度が目立つため、必ずしも円滑に事が運ばれたわけでもないことが焦点となります。

Ridley( p.151)は、従来軽視されがちであった計画的行動説の疑問点を2つ挙げています。

・国庫金をローマに残置した不手際
・法的正当性を保証するローマと元老院の重要性

状況強制説に近いゲルツァー(p.168)やモムゼン(p.328)を始め、ポンペイウスがピケヌムで防戦を試みる気があったとする見解も多いため、自身の政治的地盤を最初から放棄できたのかという点を加えてもよいかもしれません。

計画的行動説については、RTさせていただいた記事に詳しく解説されているとおりです。上記のような問題点に関しては、後述するFritzのような説明がなされます。

Eckstein(2017, 110f.)は、折衷的な概括をしています。
要約すると、次のような内容です。

1月初めには、ポンペイウスはまだイタリアのために戦う用意があった。スペインからの牽制とガリアにおけるカエサル側兵士の不満の噂があったため、カエサルは敢えてイタリアへ侵攻せず守勢をとるのではないかと考えつつ、イタリアを放棄して東方へ向かうという案もすでに念頭に置いていただろう。
ピケヌムでさえ抵抗に失敗したとき※、最良の方針はイタリア放棄だと躊躇いつつ決断した。
カエサルの行動が全くの驚きであったとは思えないが、その成功のスケールと急速さがポンペイウスにローマ、そしてイタリアを放棄させた。

近年の学説※に沿って実際の経過をうまくまとめているように思えますが、ポンペイウスの考えを曖昧に捉えざるを得なくなります。

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※イタリア放棄を最終的に決断した時期については、諸説あります。
eg. Seager, p.159   ピケヌム失陥以前、1/28-2/6
    Leach, p.178 2/4までに 

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個人的には、反カエサル派の軍事戦略については、どのような終局end stateを想定しているのかを考えてみる必要があると思います。

ドミティウスとのすれ違いが示すとおり、反カエサル派はカエサル打倒という点では一致しているものの、その他の点ではばらばらの考えを持っていました。

Fritz(pp.145-148)の問題設定の一つは、ポンペイウスがスッラの流儀に従ってイタリア再征服を自身の強大化に利用しようと以前から計画していたのではないかというキケロの疑念が妥当なものか検討することでした。

そして、カエサルの勝因を急速な侵攻によるパニックや元老院議員達の愚鈍さに求める見解ではなく、プロソポグラフィ研究に基づいて氏族・党派や個人の利害対立により史的展開を説明するサイム(pp.65-71※)の見解を受けて自説を構築しています。

※邦訳頁数 Fritzの引用指示は原著43ff.

Fritz(pp.171-180)の見解は、計画的行動説をとると同時に、危機を利用して自己の立場を強化してきたポンペイウスの流儀が発展して、反発を避けてイタリア放棄を公言せずに情勢に推戴されて国家の救世主になれるよう誘導する方向に動いたのだというポンペイウスの政治的立ち回り仮説で補強するというものです。

ポンペイウスの政治的方針を、Fritz(p.178)は「ほとんど超人的な絶妙さを必要とするギャンブル」と評しています。

つまり、イタリア放棄という戦略は、ポンペイウスの立場を優位にするうえでも最適な政治的合理性と不可分であったと言えるでしょう。

反カエサル派の戦略というよりは、まさにポンペイウスの戦略でした。

したがって、利害の対立する反カエサル派内においては、自明であるというほど軍事的合理性を優先してはいないと受けとめられる余地があったのではないでしょうか。

ここで、Burns(p.95)が、Fritz(p.169)に従ってポンペイウスがイタリア放棄をほのめかしたことで人々を驚かせてmaius imperiumを与える案が流れたのだとしつつも、Meyer(p.229※)による元老院議員達は軍事的状況を理解できなかったのだという説明には難色を示している点に注目したいと思います。

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※Burnsの参照指示。筆者の閲覧した版ではp.299注3
〜beruht auf totalem Mangel militäischem Verständnis.
cf. p.300  Die Senatoren, militärisch völlig urteilslos, 〜

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根拠としては、Gelzer(Kleine Schriften, Wiesbaden, 1962, 2, 195 未見)による元老院議員達にもそれなりに軍事経験があったという指摘を挙げています。

Burnsは、ポンペイウスがコルフィニウムのドミティウスを救援しないことで兵力集中の時間を稼げただけでなく、自身に対する反対派を排除できる見込みがあったとまで踏み込んでいます。

さらに、ドミティウスがコルフィニウムを首邑としたパエリグニ族の地に大所領を擁していたように、反カエサル派の元老院議員達は敵に自分たちの故郷を明け渡すのを嫌がって(ゲルツァー, p.170)いたかもしれません。

こうしてみると、ポンペイウス以外の反カエサル派元老院議員達にとって彼らの戦略に望まれる共通の終局end stateは、ローマ市を中心とした従前の政治体制と権益を維持し、カエサルにせよポンペイウスにせよ独裁的強者を排除することであって、カエサルを倒す最適効率を求めていたわけではなかったように思えてきます。

曖昧な態度を取るポンペイウスが念頭におく終局end stateがどのようなものなのか?
周囲は疑心暗鬼にならざるを得なかったでしょう。

個人的には、キケロの伝える「スッラにはできた。自分にできないか?Sulla potuit. ego non potero?」(Cic. Att. 9. 10)という言葉の含意する衝撃を重視したいと思います。

Fritz(p.177)は、Meyer の見解に賛意を示してポンペイウスには強権により独裁を敷くような考えはなかったと見ました。

RTさせていただいた記事にあるとおり、Pocock(p.79)もこの言葉は軍事的な意味でしかなかったとしています。
cf. Seager, p.162

しかし、ポンペイウス自身の意図にかかわらず、スッラの名前とイタリア侵攻を口にされた場合、相手はむしろスッラの政治スタイルの方を生々しく想起したように思います。

ポンペイウスの野望にキケロが不信を記したり、ポンペイウス派が勝利した場合の苛烈な報復への不安をカエサルが煽ることができる下地があったのではないでしょうか。
cf. Seager, p.162

この世代のローマ人にとってスッラの名は恐怖政治のイメージを喚起するものでした。

カエサルにも「スッラを真似るつもりはない」(Cic. Att. 9. 7c)という発言がありますし、ポンペイウスの超然・曖昧な姿勢もスッラとは異なっていたから周囲に受け入れられてきたのでしょう。

私見ですが、当時のローマ人は理論的・抽象的根拠というよりも具体的な歴史的事績や経験の説得力を指針として行動を決していたようなイメージを持っています。

ポンペイウス自身も、自己の戦略を軍事理論の概念で整理したというよりは「スッラのように、そして海賊退治のときのようにやる」というイメージから具体的に展開して考えていたかもしれません。

(もちろん、当時の人間の思考過程の話であって、観察者としての我々が理論的な用語で歴史事象を整理・叙述することとはまったく別次元の話ですが) 

Creveld(27f.)は、優れた歴史作品と名将を輩出したギリシア・ローマの古典は、中国とは異なり、論理的な戦争の哲学を生まなかったと評しています。

現代的な軍事理論の観点からすると、アイネイアスからウェゲティウスに至る現存の著作は、実用的で平凡なハンドブックに見えるというのです。

Campbell(19ff.)は、共和政期のローマ人は軍事を実務経験や偉人・偉業の範例exemplaから学ぶのが望ましいとみなしており、ハンドブックは未経験者等の学習を補完するものとして用いたのだろうとしています。

現代人が古代の戦いを分析する場合にも、こうしたexemplaは役に立つと思います。

例えば、ハンニバルのイタリア戦役を理解するうえではピュロスの事績を、スキピオのアフリカ戦役にはアガトクレスを見ると参考になります。

ポンペイウスにせよ元老院議員達にせよ、軍事的にスッラを真似るのであれば、その政治姿勢をも踏襲したほうが指揮の統一という点では合理的ということになるかもしれない、という類推が自然と脳裏をかすめたのではないでしょうか。

ゲルツァーは、ローマ放棄に際して明らかにポンペイウスには前88年のスッラ召還と第1次ローマ進軍の記憶が眼前に鮮明に浮かび上がっていたと述べるとともに(166f.)、随所でポンペイウスの戦略にスッラのイメージを重ねて叙述しています(eg. p.175)。

サイム(p.124)は、かつてルクルスのことを「ローマのクセルクセス」と嘲笑ったほかならぬポンペイウス自身が地中海の諸都市・属州・王と個人的な絆を結んだ東方専制君主であり、カエサルの率いる蛮族の侵入に劣らない現実的な脅威であったと記しました。

個人の意思を超えた史的展開を冷徹に俯瞰するサイム(77f.)からすると、カエサルもポンペイウスも武力支配を追求しており、仮にポンペイウスが勝利しても数年後には「独裁官ポンペイウス」が暗殺されたであろうということになります。

彼らの差異は、ポンペイウスの大義のほうがよりすぐれた大義ということになっていて、その利害は合法性※という立派な見せかけを持っており、異質のものの集合体であるカエサル側はそれに対抗することができなかった点にあるとサイム(p.78)は言います。

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※ローマ・イタリアの価値と政治的正当性について
eg. 元老院議員の主要人物を連れたポンペイウス派の優位とする見解 Seager, p. 163
ローマ・イタリアの価値を再評価する見解 上記Ridley参照

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ポンペイウス自身が望むにせよ望まないにせよ、東方からローマへ進軍するうちに見せかけの合法性という大義がいつの間にか霧消してしまうことになったかもしれません。

しかし、そうは出来なかったところにスッラを経験したローマ人達の反発があり、そうはしなかったところにポンペイウスの個性があったのではないでしょうか。

「同床異夢を壊さずに軍事的にはイタリア放棄が最善だと誘導する」という政治的行動がポンペイウスの策であったとする場合、ひょっとしたら内戦の勝敗以上に新しいスッラを望まないことを優先しているかもしれない人々の考える「軍事的合理性」と折り合えるのか?という点も、イタリア戦役の見どころの一つだと思います。

4 評者たちの戦略観

ポンペイウスの企図を歴史的事実として考察することから多少距離をおいた場合、イタリア放棄という戦略の是非についての様々な意見を比べてみると、評者自身の戦略観を垣間見ることができて興味深いです。

Burns(p.74)は、計画的であったにせよ状況に強いられたにせよ、大半の歴史家はポンペイウスのイタリア放棄策が唯一勝算のある選択肢だったと見なしているが果たしてそうだろうか、と問いかけるところから考察を始めています。

そして、イタリアに踏みとどまるべきだったという見解の例として、なんとナポレオンの評価を持ち出しています(p.93)。

以前ツイートしたことがあるのですが、ナポレオンがセントヘレナ島で口述筆記させたカエサルに関するコメンタリーは、カエサルの軍事作戦を語る上で歴史家たちに大きな影響を与えています。


政治・軍事の実務を分かった人間が歴史を書くべきというポリュビオス的感覚がかすかに尾を引いているのか、西欧の歴史家たちは赫赫たる武勲に輝いた軍人達の論じる古代戦史批評に対して一目おくところがあるようです。

さて、ナポレオン(Maguire, p.70)ですが、ポンペイウスはローマを手放さず全兵力を呼び集めるべきだったとしています。
内戦の開始にあたっては、全部隊が集結することで互いに自信を深めてますます自派に忠実になるからだと理由を述べています。

訳者Maguireがナポレオンは自身の経験から語っていると注釈を加えているとおり、実感のこもったアドバイスに思えます。

Burns(p.94)は、ポンペイウスは心理的に戦いに負けていたと評しています。

機甲戦理論で有名なFuller(p.183)も、戦いの主導権という心理的観点からイタリア放棄策を難じています。
スペインと東方の大軍で挟み撃ちというサイムの言に疑問を呈して、雄大な計画だが最初から主導権を放棄しており、最初の2か月でポンペイウス敗北の基礎が横たえられたのだとします。

Fuller(p.193)はまた、イタリア放棄は躊躇いがちで確信のないポンペイウスの性格と準備不足によるものだと評したDodge(419ff.)に対して、内戦は準備などできないと述べるなど対外戦争とは異なる特殊性も指摘しています。

しかしながら、やはり「落ちるナイフに手を出さずに」一時撤退するのは軍事的に理にかなっていると見るほうが穏当かもしれません。

Veith(1906, p.249)は、ポンペイウスが最初は驚いたもののすぐに旧計画(Veith説: 春攻勢)を捨ててローマとイタリアを放棄したのは賢明で節度があったとし、スペインからの牽制と海に守られつつバルカン半島で戦力を培養したのもよかったと評価しています。

間接的アプローチの提唱者であるリデル・ハート(37f.)は、カエサルは敵の徴集兵員を自軍に引き入れつつアドリア海沿岸を侵攻したことで士気動揺した反カエサル派にローマを放棄させ、さらにコルフィニウムの部隊をポンペイウス主力と分断して初期の成功を収めたが、その後はブルンディシウムに向かって直進するという直接性の過剰によってポンペイウスの撤退決心を促してしまい、一戦役で戦争を終わらせる機会を逸したとします。
ポンペイウスの撤退はカエサルの失点ということですので、裏を返せばポンペイウスは上手く逃れたとしてもよいかもしれません。

この点、状況強制説に近づくほどイタリア放棄が自然な選択となり、同時に困難な状況の下で多くの兵員を無事撤退させたポンペイウスの手腕が評価されることにもなると思います。

ただ、イタリア放棄そのものは容認する場合でも、その後の戦略構想を巡っては見解・評価とも分かれます。

まず、ポンペイウスの戦略としては、戦力が整い次第、攻勢に移転してイタリアに侵攻するという方針が考えられます。

まさにスッラの先例に則るものです。

当然、現代人の批評を持ち出すまでもなく、敵であるカエサル自身がよく分かっていたでしょう。

しかし、だからこそカエサルは先手を打ってスペイン・ギリシアへの侵攻を急いだわけですし、ポンペイウス自身も準備不足とひきかえにカエサルに先んじようとまではしませんでした。

どのような戦略をとろうと時間が許せばイタリアへ侵攻できるだけの圧倒的戦力を揃えるべく準備するのは当たり前であり、条件が整うかはカエサル次第と言えるでしょう。

カエサル自身、戦場がギリシアへ移った後でさえ、事あるごとにポンペイウスのイタリア侵攻を警戒していました。
cf. Caes. BCiv. 3.29.3; 3.78.3

古くはモムゼン(347f.)が、ポンペイウスはスペインとマケドニアから挟撃してローヌまたはポー川で合流するとともに、艦隊がイタリアに侵攻するという構想を持っていたのではないかと推測しています。

また、カエサルの攻勢を他方へ誘引してスペインからの軍勢がイタリアへ侵攻する戦略であったとする見解もあります。
cf. Ridley, p.150

次に、広大な支配領域と海上優勢を活用し、イタリア半島を封鎖・圧迫して、カエサル側を疲弊させるという方針が考えられます。

モムゼン(p.331; 343)は、ローマを飢えさせるイタリア封鎖の企図があったが、シチリアとサルディニアの失陥で瓦解したとしました。

Seager(p.164)もまた、ポンペイウスはスペイン戦役を時間稼ぎとみており、海軍力の増強によるイタリア封鎖と最終的な侵攻が最大の関心事であったとしています。

Leach(p.184, 190)の場合、イタリアを海上封鎖しつつスペインとギリシアの大軍の間に閉じこめるのがポンペイウスの戦略であったとします。

イタリア半島の海上封鎖について、興味深いのはゲルツァー(175f.)の評価です。

ポンペイウスが基本的には封鎖と兵糧攻めで勝利できると期待していたとしつつ、これはクラウゼヴィッツが不同意を表明した戦略だと否定的に評価しています。


そこでいかなる時代にも、政府や将帥は極力決戦の回避に努め、決戦を行わずに所定の目標に到達しようとし、或は目標そのものをひそかに廃しようとしたのである。するとこれに追随する戦史家や戦争理論家は、決戦以外のなんらかの方法による戦役や戦争を目して、決戦による勝敗の決定に代わる等価物となしたばかりでなく、むしろこれを決戦にまさる高度の技術と見なしたのである。こうして今日でも我々は、戦争経済の立場からややもすれば本戦を謬想によって生じた止むを得ざる害悪、即ち必要悪であるとし、慎重に考慮され正常に行われるような戦争においては、決して現われることのない病的現象と見なしたがるのである。そこで彼等は、流血を伴わ ないような戦争を遂行するすべを心得ている将帥こそ栄冠を受けるに値いするとし、また戦争理論の本務は、正真正銘のバラモン教よろしく、まさにこの一事を教えることでなければならない、と主張するのである。
クラウゼヴィッツ(篠田英雄訳)『戦争論 中』, 第4篇11章, 74f.より。※ゲルツァー(175f.)の引用文は長谷川博隆先生による邦訳となっていますが、ここでは篠田英雄先生訳の『戦争論』から引用させていただきました。

たしかに、イタリア半島を封鎖して穀物供給などに打撃を与えるとしても、ローマ市の政情不安を煽ることはできますが、カエサルの軍勢そのものを拘束したり消耗させたりすることは期待できなかったでしょう。

カエサルがイタリア半島で守勢をとり両陣営が対峙したまま長期戦になる場合には封鎖の効果が望めますが、強力な軍勢を有するカエサルが攻勢に出てくるときには、古代の戦役のテンポからすると戦闘での決着が必要となり、決定的な優位が得られるわけではありません。

例えば(cf. Roth, p.320)、後69年の内戦に際して、ウェスパシアヌスはエジプトを押さえてローマ市への穀物・税供給をとめ、さらにはアフリカに侵攻する計画も立てていましたが、クレモナでの戦勝により先に決着がついてしまいました。
また、後193年、セプティミウス・セウェルスはペスケンニウス・ニゲルによるエジプト支配を恐れたと言われていますが、会戦により内戦に勝利しています。

実際、ポンペイウスがどの程度イタリア封鎖に重きをおいていたかというと難しいところでもあります。

当初コンスル(達)にシチリアへ向かうよう要請していたのを撤回し、ブルンディシウムからのギリシア渡航に合流させていることは注目に値するでしょう。
cf. Cic. Att. 8.3.7;  8.12A.3;  8.12C.3
      シチリアへの守備隊派遣を諦めたとするのは、Leach, p.183

結果として、カエサルはコルフィニウムの降兵などによる部隊を編成してシチリアとサルディニアへの侵攻を命じ、東西航路の要衝かつ穀倉地帯であるこれらの地域を容易に確保してしまうことになりました。
cf. モムゼン, p.346, 349;  Seager, p.161

Seager(p.164)は、カエサルのバルカン半島への渡海について、運と速度が海上封鎖の突破を成功させたと述べていますが、当時の軍船の能力などからすると、海軍力をもって敵の渡海を阻止するのは困難であったことを考慮する必要があると思います。
cf. Erdkamp, p.180;  Delbrück, 529f.

最後に、カエサルの攻勢を海の向こうで待ち構え、海軍力と人的動員力を活用して撃破するという方針はどうでしょうか。

興味深いのはDelbrückの見解です。

Delbrück(p.516)は、ポンペイウスは差し迫った準備の必要性を感じていないうちにカエサルの攻撃を受けたが、コルフィニウムで無駄にドミティウスを救おうとせず、状況をよく理解して軍勢の中核を最終決戦のために温存したとイタリア放棄を肯定的に評価します。

続くスペイン戦役は、東方での準備や反撃などのための時間稼ぎだったとします(p.517)。

そして、ポンペイウス側からの積極的なイタリア侵攻は戻ってくるカエサルと劣勢下ですぐに決戦することになるので不利だとし、シチリア、サルディニア、スペインを奪回して力を蓄えてから決戦を受け入れるのが上策であったという見解を示しています。
デュッラキオンでの勝利の後でさえ、カエサルを追跡して決戦に至るより地歩を固めるべきだったという結論です(pp.531-535)。

注意する必要があるのは、スペイン戦役でもギリシア戦役でも各史料はカエサル方の視点でポンペイウス方の兵力を過大に伝えており、実際にはさほどの数的優位になかったのではないかと推測するDelbrück独特の見解に基づいての評価だという点です。

海軍力と潜在的な動員能力では優位があるとしても、質と現有兵力では強力な敵に対抗する戦略というイメージになるからです。

ところで、Delbrückといえば、クラウゼヴィッツの解釈を通じて、戦略における殲滅戦略と消耗戦略という区分を提唱したことで知られています。

上記のような見解や戦闘に消極的なポンペイウスの行動からすると、なんとなく「消耗戦略」の事例だろうと考えたくなりますが、Delbrück自身はどちらに区分したのか明言してはいません。

ポンペイウスの戦略を理論的に整理するときに有益な議論だと思いますので、この点について詳述してみたいと思います。

単純な区分のように思えますが、Delbrückのいう殲滅戦略と消耗戦略の差異は、意外に分かり難いものなのです。

彼自身は、次のように記しています。

われわれはすでにマキャヴェリの章で、戦略の本質が中心的な問題であること、つまり二種類の戦略形態、すなわち殲滅戦略と消耗戦略の存在こそが、必然的にあらゆる戦略思想と戦略行動を支配しているということを見てきた。
あらゆる戦略の第一の原則とは兵力の集中であり、敵の主力を見つけ出してそれを打倒 し、敗者が勝者の意思に従い、その条件を受け入れるまで勝利を追及することにある。それは最も極端な場合には、敵国の全領土の占領を意味するものとなる。この種の用兵は十分な優勢を前提とする。その優勢とは、最初の大勝利を得るには十分であるが、敵国の全領土を占領するには十分ではないか、あるいは、敵国の首都を包囲する程度の優勢という場合もありうる。また、敵対する兵力が均衡するために、はじめから適度な成果のみが想定されるということもありえよう。そして、敵の完全な打倒を期待するよりも、あらゆる種類の打撃と損傷、破壊により(その場合、常にある程度の緩和が示されるのだが)、最終的に勝者の条件を受諾させる程度に敵をすり減らし、消耗させることを目的とすることも可能なのだ。これが消耗戦略の体系であり、その最大の問題は戦術的決断、すなわち危険と損失を伴う戦闘を求めるべきか否か、あるいは、勝利による利益が損失を越えるものなのか否かという点に存在する。ある場合には、決戦の際に最大の利益を自軍にもたらすように、すべての精神力とエネルギーを活用し、その勝利を最大化することが将帥の主たる任務となる。また他の場合には、自己の軍隊と国土そして人民の安全を保障するため、敵の弱点となる場所や方法について分析することが将帥の任務となる。彼は要塞を攻囲するか、一地域を占領するか、敵の補給を分断するか、敵の孤立した部隊を奇襲するか、敵の同盟国を離反させるか、味方につけるかなどについて自問することになるであろう。だが、とりわけ重要なことは、敵主力を打倒する根拠や好機が生じたか否かである。したがって、殲滅戦略においても消耗戦略においても、戦闘は一定の役割を果たすことになるのであるが、両者の相違は、前者においては戦闘が他の何にもまして、かつ他のすべてをそこに注ぎ込む唯一の手段であるということにある。他方、消耗戦略では、戦闘はいくつかの手段の中から選ばれた手段の一つということになる。わが軍が求める条件を受け入れるまで、戦闘を行わずに敵を追い込む可能性は、究極的には、流血を伴わない用兵を意味する純粋な機動戦略となる。しかしながら、そのような純粋な機動戦略とは言葉の遊戯にすぎず、世界の戦史々上、現実に生起した事例はない。たとえ、一方が実際にそのような 用兵を企てたとしても、相手が同じように考えて、それを保持し続けるか否かは不明である。それゆえ、決戦の可能性は流血を嫌う将帥においても常に伏在しており、かくして、消耗戦略は決して純粋な機動戦略とは等価なものとはならないのである。むしろ、それは 内部対立を背負い込んだ用兵と見なすべきである。その原理は極性化ないし双極性に存在する。
『戦略論体系⑫デルブリュック』pp.16-18より


簡単にいうと、次のように定義されるということです。

【殲滅戦略】(目的)敵軍の無力化、敵国の完全な打倒
      (手段)戦闘のみ

【消耗戦略】(目的)一定条件を受諾せざるを得ない 
          程度の敵国の消耗
      (手段)戦闘を含むあらゆる方法
          (機動/かけひきManöver)
          ただし戦闘を排した純粋な機動の
          みで達成するのは非現実的

一見すると明快ですが、戦史上の実例に照らした場合、この定義の分かりづらさが浮かび上がります。

Delbrück(ホイザー, 188f.)は、それぞれの戦略について代表者を挙げています。

【殲滅戦略】アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、グナイゼナウ、モルトケ

【消耗戦略】ペリクレス、グスタフ・アドルフ、プリンツ・オイゲン、マールバラ公、ウェリントン、フリードリヒ大王、ハンニバル

そして、この最後の2者を殲滅戦略家ではなく消耗戦略家に区分したことで、Delbrückは論争を巻き起こすことになりました。

フリードリヒ大王に関する参謀本部や軍人たちとの対立、いわゆる「戦略論争」は有名ですが、ハンニバルについても犬猿の仲であるギリシア・ローマ軍事史の泰斗J. Kromayerと論戦を交わしています。

ハンニバルはカンナエの戦いを境に殲滅戦略から消耗戦略に転じたと評したKromayerに対して、Delbrück(362f.)は最初から一貫して消耗戦略なのだと批判しました。

Kromayerの所論を逆手にとる形で、まず、ローマの破壊や国家の滅亡を目指していなかったと政治的目的による区分理由を挙げます。

敵軍を撃滅した後でもローマ市を攻略しようとはしなかったではないかというわけです。

そして、ハンニバルはカンナエの戦いの後でも変わらず会戦を求めており、ローマを疲弊させて譲歩を迫るという消耗戦略だとしました。

つまり、殲滅戦略だけでなく、消耗戦略もまた大会戦を含む戦闘を手段とすることもあるというのです。

ちなみに、Delbrückはハンニバルの敵手ファビウス・マクシムスもまた消耗戦略であったとしています。

これに対してKromayer(p.394)は、目的と手段の組み合わせによる定義は、異なるふたつの要件を満たすべきなのかという複雑な問題が生じてしまうと注意を喚起しました。

大決勝会戦という手段を用いずに敵軍事力の完全な無力化を目指すことも考えられるではないかと疑問を呈します。

さらに、そもそもクラウゼヴィッツは戦争の分類(いわゆる絶対戦争と限定戦争)をするにあたって戦争目的を中心に捉えていたと指摘するとともに、この定義でも難点があると主張します(pp.395-397)。

例として、内乱中に繰り返し政治的妥協を提案したカエサルが消耗戦略、拒否し続けたポンペイウスが殲滅戦略になってしまうと述べています。

cf. イタリア戦役でのカエサルの和平提案に関する近年の見方としては、
・時間稼ぎの方便とする見解 Leach, p.177
・真剣なものとする見解 Sirianni, pp.225-227; Seager, 155f.

これは、Delbrückの痛い点を突いていると言えるのではないでしょうか。

ポンペイウスがカエサルと妥協してローマを分け合うという戦争目的は考えにくいですし、Delbrückは「優勢を確保してから決戦を受諾」すべきだというのですから、ポンペイウスを殲滅戦略の範疇に数えることになるでしょう。

一見して対照的なハンニバル対ファビウス、カエサル対ポンペイウスの戦いを同系統の戦略同士とするのでは、分析の枠組みとして適当なのかという疑念が生じると思います。

このように、Delbrückによる具体的なハンニバル、ポンペイウスの批評をみると戦争目的による分類を重視しているように見えるのですが、上記のとおり彼の定義上は手段による縛りが課されており、どのように適用するのか判然としません。

Kromayer(397ff.)はさらに、戦争目的だけによる分類で生じる困難をDelbrückの定義のように大会戦という手段に注目することで改良することもできないと主張します。

カエサルを含め、殲滅戦略家の典型とされる将帥たちも封鎖などのかけひきを含めた機動(Manöver)を多用していると指摘します。

これも、Delbrückへの反論といえるでしょう。

Delbrück (p.523)は、スペイン戦役におけるカエサルが戦場外機動のみでポンペイウス派を降伏に追い込んだことについて、流血を伴わない勝利がありえる稀有な実例であるとしつつ、一見すると消耗戦略に見えるけれどもカエサルは積極的に戦闘での決着を望んでいたのだから殲滅戦略の例なのだとしています。

Kromayer(p.400)も機動は戦闘というプレッシャーを背景に有利な体勢づくりを目指すものだとするのですが、これは消耗戦略でも同じことであって、戦闘に支配的な地位を与えることはできないという逆の結論を導いています。

最終的に、Kromayer(pp.401-403)は自説を次のように整理します。

①政治的な戦争目的と個々の戦役における作戦目標を区別する必要がある。

②当初から一貫した戦争目的を確定することはできない。実際問題としては、戦局に左右されつつ、達成した成果に基づいて次の戦役における作戦目標が決定できるだけである。

③殲滅戦略とは、現在対峙している敵を手段に関わらず撃滅することを優先する姿勢である。

④このような姿勢は、将帥の気質によるものであり、警戒心よりも大胆さが優ることを特徴とする。

したがって、Kromayer(pp.404-408)に言わせれば、ハンニバルは天性の殲滅戦略家でありながら戦局の不利により消耗戦を強いられたのだということになります。

逆に、Kromayer(p.393, 403)は、ポンペイウスを殲滅戦略の遂行者であるカエサルや殲滅戦略の気質的適合者であったハンニバルとは対局にある消耗戦略家に分類しています。

つまり、ポンペイウスの戦略の特徴とは「慎重である」ということになるのでしょう。

長くなりましたが、DelbrückとKromayerの論争を一瞥することによって、分類と評価を狙いとする軍事理論から個別具体的な事象の叙述を中心とする軍事史学への橋渡しとなる視点を得られたのではないでしょうか。

カエサルの攻勢を海外で待ち構え、有利な体勢を築いて勝利を得るという戦略の是非に戻ります。

Kromayerの見解を引き継いだとも言える、消耗戦略的なポンペイウス評価の代表例として、Labischの見解を見てみましょう。

Labischは、艦隊と沿岸基地により補給問題からの独立性を得て戦術上の自由度を保つのがポンペイウスの戦い方の基本であり(p.197)、考え抜かれた準備に基づく守勢の戦略がその用兵の特徴である(p.199)とします。

Labisch(p.201)はポンペイウスを消耗戦略家に区分し、戦争全体をカバーする遠大な計画から始めて計画的に戦場を構築し、物資輸送・供給の組織的準備を各地で進めたのだと述べています。

また、そのバックボーンは常に艦隊であり、海陸一体での作戦の重要性を認識していた司令官であるとして、カエサルとポンペイウスの戦いは量的優位にある海上勢力と質的優位にある陸上勢力の対決だと位置づけます。

補給を可能なかぎり戦略・作戦に従属させようとしたカエサルとは対照的に、ポンペイウスは細心の準備を通じて直接対決が必然的に伴うリスクを排除しようとしたのだとも言います。

Labisch(p.202)は、「戦役においてカエサルは慎重であったのか大胆であったのか一概には言えない」というスエトニウスの記述(Iul. 58)から語句を引いて、大胆audentiorなカエサルに対する慎重cautior なポンペイウスの戦いが成功の見通しのないものだったのかは分からないと結論づけています。

そして、ポンペイウスの死後におけるカエサルの諸戦役、さらには息子であるセクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスの対立も、ポンペイウスの遠大な戦略「全人界(οἰκουμένη)」動員の結果であったのだと評しています。

つまり、ポンペイウスの慎重な姿勢と準備を肯定的に評価する見解と言えるでしょう。

ただ、こうした「消耗戦略」は、カエサルの首尾一貫して簡明な「敵に向かって進む」という方針に比べると、どのようにして最終的な勝利を得るつもりなのか具体的なイメージがはっきりしないきらいがあります。

現代人の感覚では、海上での優位に加えて広大な支配領域と優勢な人的・物的動員力をもつ側は、経済的圧迫などの多様な手段の助けもあり、局地的な戦闘の勝敗にかかわらず最終的には戦争自体を有利に進めていくだろうと思いがちです。

しかし、当時の戦争では遠隔地に分散した兵力が相互に連携するのは困難であり、情報伝達のみをもって制御しうる巨大な組織・官僚機構をなした軍隊もありませんでした。

海軍が敵の渡海を妨げる能力も限られていましたし、運動できる敵軍の糧秣補給を断つのは困難でした。

軍勢の統率は、将帥自らが掌握する兵士達の凝集力が頼りでした。

主たる軍勢を崩壊させれば麾下勢力に対する支配力も分解させてしまえる可能性が高いため、敵が内紛などで自壊しない限り、最終的には互いの主力同士による決戦に至ることが多かったのです。

カエサル軍を「消耗」させたとしても、最終対決が必要なのであれば、それはいつ・どこで行うのでしょうか?

そして、勝利の見込みをどのくらい確実にできるのでしょうか?

イタリア放棄は疑いなく正しいとするAdcock(pp.644-647)は、ポンペイウスは最も成算のあるコースを選んだが、それでも勝利のチャンスは多くはなかったと言います。

Adcockの特徴は、会戦で決定的な兵種は軍団兵であるとし、当時の騎兵は経験を積んだ堅固な歩兵に対して有効性が低かったと評価している点です。

したがって、多数の軍団を保有するカエサル軍に向かってイタリアへ侵攻するのは問題外であるとします。

冬の長旅に委ねて、ヌミディア人に頼ることになるアフリカや、ガリアに阻まれて東方の資源から遮断され「監獄」となるスペインへ向かうのも得策ではないとします。

第二のハンニバルではなく、セルトリウスになることしか見込めないと述べています。

そして、半ダース以上の軍団は徴募できなくとも、資金、弓兵や軽騎兵といった東方の資源を利用できるうえ、距離が近く再度イタリアへ戻るのにも容易なギリシアへ向かったのだと説明しています。

また、海軍力では優位にあるうえ、渡海してくるカエサルは船舶の欠乏により兵力、特に騎兵の規模が限定され、補給にも難をきたすだろうとポンペイウスの算段に合理性を与えています。

しかしながら、結局は、当時の艦隊の限られた航行能力や荒天を渡るカエサルの強運、兵の戦意や耐久力などが勝敗を分けたのだという、いくぶん感覚的な結論でまとめています。

内乱は海軍戦略の学徒を面食らわせるのであり、最も重要な戦役をポンペイウスは「海軍力sea power」に、カエサルは「海sea」に委ねたのだと評しています。

Goldsworthy(2010, p.221)は、優勢な艦隊とともにギリシアでカエサルを待ち構えたポンペイウスの戦略は前42年のブルートゥス&カッシウスや前31年のアントニウスと同じだと指摘しています。

いずれもリスクをとった攻者に敗れたのであって、主導権の維持は重要だと評しています。

そして、ポンペイウスが自派内から決着を引き延ばしているという批判を受けてファルサルスの戦いに踏み切ったことをもって、内戦では敵軍を兵糧攻めで屈服させる戦略を続けるのは困難だとも述べています。

Erdkamp(141f.; p.150)は、カエサルの諸戦役は速度と奇襲を優先したのであり、戦略上の要請とロジスティクスの限界という危険の狭間でギリギリの作戦を行ったからといって補給上の破綻をもたらす無謀なものだとする批判は不当だとしました。

ファルサルスに至るギリシア戦役は補給上で劣勢な側が勝利した事例であると述べ、補給問題の過大評価をいましめています。

百家争鳴、議論は尽きません。

最後に、Eckstein(2017, p.113)の総括をもって本項を終えたいと思います。

彼は、もしポンペイウスがファルサルスで勝利していたならば、内乱における彼の将才に対しての我々の理解は異なっていただろうと述べています。

ポンペイウスは天才であって戦略の達人、伝統的なローマの(そして地中海世界的な)名誉規範を無視し、イタリアを見捨てて「逃亡した」将軍への向こうみずな追撃にカエサルを陥れ、時期を見計らって撃破した人物として歴史書に登場しただろう。内乱における戦略議論はまったく違ったトーンとなり、後世の賞賛と批判は逆転することになっただろうと。

この指摘は、結末から逆算して出来事を一本道に説明することに対しての歴史家らしい警鐘であると同時に、戦略論議の本質への問いかけともなっているように感じます。

ポンペイウスは、勝算のある戦略に従っていながら、最後の決戦という戦術的敗北によって戦争に敗れたということになるのでしょうか?

それとも、戦争に負けた以上は、その戦略にはなんらかの欠陥があったということになるのでしょうか?

対照的に、戦勝という結果によってカエサルの戦略は優れていたことになるのでしょうか?

面白いことに、Eksteinは「向こうみずな追撃に敵将を陥れ、時期を見計らって撃破した人物」の例えとして、トラシメヌスの戦いにおけるハンニバルを挙げています。

第二次ポエニ戦争は、国力で優位に立つローマが、局地的な敗北にも関わらず、最終的には順当に勝利した物語として要約されてしまうことがあります。

しかし、ポエニ戦争史に取り組んだ歴史家の中には、結論を開いたまま余韻を残すことを選び、次のような問いかけを記している人たちもいます。

「それでは、ハンニバルがザマの戦いで勝利していたら、どうなっていただろうか?」

Eksteinがポンペイウスに対して記した言葉と重なって見えます。

10年先は、50年先は、国家としては……と解像度を粗くして、巨視的に後づけていくのであれば、歴史の流れは変わらないといった見方もあるでしょう。

サイムのように、カエサルでもポンペイウスでも結局は……という叙述もできます。

しかし、歴史の過程において、その場を生きた個人の、人々の境遇や人生にとっては、その一勝で十分に価値のある変化が起こったかもしれません。

そのレールに乗っている時点で予定調和の道筋であるのならば、「戦略」という言葉は「運命」というにも似た響きとなって聞こえるような気がします。

そうではないとするのならば、「戦略」によって、人は何を変えることができるのでしょうか?

こうした側面からも、カエサルではなくポンペイウスの視点で戦略を考えてみるのは、とても興味深いと思います。

5 軍勢の質とは何か?

前49年1月時点では反カエサル派の軍事的準備はいまだ整っておらず、イタリアを南下するカエサルの軍勢に対抗できる戦力は存在しなかったとされることが多いようです。

しかし、この点についてはもう少し詳しい検討が必要だと思います。

Ridley(149f.)は、1月中旬までに反カエサル派は54個大隊を徴募しており、パルティア遠征用にカエサルから引き渡されていた2 個軍団と合わせて7個軍団相当もの兵員数に達していたことを改めて指摘しています。
cf. Holmes, vol.3, 357f.; Burns, p.93

したがって、ポンペイウスが憂慮したのは単なる兵数の問題ではなかったことになります。

よく取り上げられるのは、カエサルから譲り受けた2軍団の忠誠心への疑念です。

しかし、これには、次のような点から本当の理由であることを疑問視する見解があります。

①ガリアのカエサル側兵士に不満が広がっているとの噂を反カエサル派が信じていたというのであれば、なぜ2軍団は強固にカエサルへの忠誠を保っているとみなすのか。

②2軍団は、結果論とはいえファルサルスの戦いに至るまで忠実であったではないか。

cf. Ridley, p.148;  Fritz, p.168; Burns, p.93

もちろん、反論もあります。

Hillman(250f.)は、ポンペイウスに引き渡された第15軍団が、第13軍団と交代するまでイタリアに接したガリア・キサルピナに駐留していた点を重視しています。

政治的にも繊細な任務であり、カエサルの信頼の厚さをポンペイウスも疑わざるを得なかったのではないかと言います。

また、ポンペイウスに引き渡された2軍団は、従前、カエサルから気前のよい給金の支払いを受けていたことも指摘しています。

とはいえ、内戦では兵士たちが状況次第で旗色を変えることは自然ですし、過去に受けた恩顧に対しての疑いというだけでは、理由として弱いように思います。

他に、ポンペイウスは徴募兵の士気に対する懸念も表明しています(Cic. Att. 8. 12c. 2)が、歴史家たちが好んで強調するのは古参兵の実戦経験と練度の優位です。

古くはモムゼン(320f.)が、白兵戦を主体とする当時の戦争にあっては、練度・経験に優る兵士は10倍も優勢な敵に拮抗し得たのだとしてカエサル方の軍事的優位を説明しています。

面白いことに、捕虜となったカエサルの第10軍団の百人隊長が仲間10人で1個大隊と戦わせてみるよう要求したエピソード(Caes. BAfr. 45)を引き、現代の兵士であれば単なるホラ吹きだが当時は本当だったのだというナポレオンの見解を傍証として挙げています。

ナポレオン(Maguire, 85f.)は、銃砲の時代には接近戦に至るまでに双方が同程度の損害を被るが、投射武器の威力が低い古代の白兵戦は一騎討ちの集合であり、精兵と経験が大きくものをいうとして、当時の会戦において敗者の損害が一方的に多くなる現象を説明しています。

これはこれで一定の説得力があるのですが、兵士の「質」の定量的評価が困難である以上、兵力比を覆す魔法の変数Xとして便利に使ってしまわないよう注意する必要があると思います。

モムゼン(p.336)は、ポンペイウスはイタリアでの戦局悪化後はスペインへ赴いて現地の諸軍団を当てにするつもりだったとします。
コルフィニウムを救えるかもしれないとアプリアで逡巡しているうちにカンパニアから出航できなくなり、ブルンディシウムからギリシアへ向けての船出を選ばざるを得なくなったのだろうとしています。

この推測は史料的根拠が薄く、季節や距離などを勘案しても可能性の低いものですが、古参兵の精強さが戦いの鍵なのであれば、なぜ後からでもポンペイウスが自らスペインを目指さなかったのかというのはもっともな疑問でしょう。

例えば、前述のとおり、Adcockはガリアに阻まれて孤立する地理と冬の長旅を幸運にまかせることになる危険を挙げて、スペイン行きの可能性を否定しています。

しかし、Adcockも兵士の練度や軍団兵の価値自体は重視していることを考えれば、それだけが理由とも言い切れないのではないでしょうか。

カエサルは、イタリア戦役後に船舶不足のためポンペイウスの追撃を諦めてスペインを攻めるに当たり、「まず将なき軍勢へ、そのあと軍勢なき将へ向かう」(Suet. Iul. 34)と語ったと言われます。

陸上から侵攻可能であるだけでなく、スペインに駐留する諸軍団の実力に脅威を感じていたからこそ、早急に排除しようとしたのでしょう。

したがって、重要性は敵であるカエサルにとってさえ明らかであったスペイン諸軍団の戦力であっても、ポンペイウスが自らその確保を最優先とするまでの決定的な価値を持っていたわけではないと言えるのではないでしょうか。

実際、カエサルの側でも古参兵にだけ頼っていたわけではありません。

Keppie(p.132)は、カエサルは、前48年8月には「30」という大きな数字の番号を持った軍団を保有していることからも分かるように、イタリアで反カエサル派が徴募しつつあった兵士を吸収し、中核幹部の異動により軍団兵力を増強していたと推測しています。(2021/3/26訂正:上記「前48年8月」は誤記。正しくは前49年8月)

つまり、もともと反カエサル派がイタリアで徴募しつつあった兵員は、カエサルの下では十分に内乱を戦っていく戦力となっているのです。

ここで、カエサル方の古参兵の精強さに対する懸念以外に、イタリア戦役時に戦力が不十分であるとポンペイウスが考えた具体的な理由として、さらに2つの可能性を考えてみたいと思います。

まず注目したいのは、2/17付けでポンペイウスからドミティウスへ宛てた書簡の記述です。

〜というのも、招集に応じた兵を早急にこちらへ集結させることは不可能であるし、仮に集結した場合でも、お互いに面識〈すら〉ないこの軍隊は、あの古参兵の軍団に対抗させるにはあまりに信頼がおけない〜
Cic. Att. 8. 12d ※邦訳は『キケロ選集13 書簡1』 p.482より

つまり、兵士一人ひとりの実戦経験や訓練だけでなく、部隊としての団結や錬成が不十分であることが、より重要な問題であったのではないかというのが1つ目です。

次に、騎兵の不足です。

モムゼン(p.325 )は、この問題を指摘しています。

当時のローマ軍では騎兵を補助軍に頼るのが習いであったため、イタリアで新編中のポンペイウス軍では欠乏しており、剣闘士、牧人で即成したとします。

ポンペイウスが奴隷、羊飼いにより騎兵800(300?)を編成したことは内乱記(Caes. BCiv. 1.24.2, 3.4.4)に記述があります。

Westall(pp.76-80 )は、わざわざ奴隷等の動員を特記することでカエサルがポンペイウスの軍勢を違法・反社会的な武装勢力として印象づける意図があったと指摘していますが、単純にこの記述が深刻な騎兵戦力の不足を意味していると捉えることに支障はないでしょう。

これも、ポンペイウスが戦力不足と判断せざるを得なかった理由のひとつではないでしょうか。

当時のローマ軍における補助軍および騎兵の重要性は、カエサルがイタリア戦役後すぐにスペインへの侵攻を急いだ理由のひとつとして、現地のポンペイウス派諸軍団が体勢を強化するとともに「補助軍、騎兵を整える」のに先んじる必要を挙げている(Caes. BCiv. 1.29.3)ことにも表れていると思います。

前記のとおり、Adcockのように軍団兵に対して相対的に当時の騎兵の価値を低くみる見解もあります。

しかし、捜索、追撃、周辺制圧など騎兵が重要となる場面は多く、結局のところバランスのとれた諸兵種の協同が不可欠であったと言えるのではないでしょうか。

軍団兵だけでは、軍勢として十分な作戦能力が発揮できなかったようにも思うのです。


6 余談:ローマ人にとっての「戦略」とは?

これまで何気なく「戦略」という言葉を使ってきましたが、ローマ史の文脈だと、どのような意味あいで用いるべきか考えさせられます。

まず、戦略というと、E. N. Luttwakを起点とする「ローマ帝国に長期的な大戦略はあったのか」という議論が思い浮かびます。

戦略論の専門家であるLuttwakの著書『The grand strategy of the Roman Empire』は、「20世紀におけるローマ史の非専門家による最良の書」(『西洋古代史研究入門』p.167)などと紹介されるように、ローマ史家に大きな反響を呼びました。

cf. 簡単なLuttwak説の概要と批判については、
e.g.サイドボトム, pp.92-98; Goldsworthy, 2007, pp.106-120

各論は批判され尽くしていますが、そのテーマの中核である「戦略」の有無については、史学と軍事理論の関わりを考えるうえで、今なお示唆に富んだ議論であると思います。

Luttwak(pp. ix-xiv)は、2016年版の序文で主な批判に対して改めて自身の見解を説明しています。

否定的な歴史家たちは、次のような根拠に基づいて、各皇帝の意向を超える持続的な戦略はなかったとしていると言います。

①戦略策定への言及もドキュメントも残っていない。

②計画の策定や遂行に必要となる専門家・スタッフ、正確な地図などが存在しない。

③コンモドゥス帝の意思決定過程など史料上の記録からは、計画の存在が窺えない。

④ローマ人には戦略的思考はなく、帝国の領域形成は即興でしかない。国政、戦略、外交などの正式な訓練もなく、戦略決定はできない。

⑤Luttwak説は、図式的すぎて例外に関する注釈が必要になる。

これに対してLuttwakは、次のように回答します。

①皇帝たちが考えなしの愚かな少年のようだと言っているように思える。コンモドゥス以外のアウグストゥスなども同じなのか。

②個々の皇帝の性癖に関する薄弱な根拠は脇に置いておいたほうがよい。帝国とは、無数の官僚や将校、募兵から補給の諸活動、日々任務を遂行する歩哨など数十万の兵士を取り巻く巨大な現実である。記録が残っていたりいなかったりする各皇帝や友人たちの沈思黙考ではない。

③例外があるのは認めており、当然である。

④戦略とは常に「何をしたか・しなかったか」から推測されるのであって、決して文書には(少なくとも日の目を見るものには)記されない。

⑤「戦略」の公式な表現を、詳細な情報に基づき合理的な選択に導かれる体系的な集団的思考だと受け取るのは驚きである。
和戦の決定は、高度な訓練を受けた専門家が体系的に分析した後に行うものではなく、たまたま責任者になった者が行うものだ。

⑥多くの批判は、軍事史など学問に値しないという蒙昧主義的なドグマに従って書かれているように見受けられる。

⑦議論は、戦略自身がどう理解されているのかによる。戦略とは本質的に近代的、官僚主義的な活動であって、利用可能なすべてのデータを収集したうえでの計算と計画的な決定に基づくという見解は、地理的知識を重視する主張からも認められるが、空間的な次元での戦略は周辺的なものである。

⑧日常的な線形の論理である常識とはまったく反対の、逆説性をもった戦略の論理を生むのは、敵対者間の闘争である。
ローマ貴族制の政治文化は、この戦略の論理に特に受容性があった。軍事、権力、勢力の現実の中で、そして、激しく競争的な流儀で自身、親族、帝国を前進させるためのそれらの無慈悲な訓練の中で、若年から教育されていたのである。

この鮮やかなまでの両者の方向性の相違は、Wheeler(1993, part1, 8f.)が指摘するように、Delbrückと古代史家たちの対立を彷彿とさせるものだと言えるでしょう。

Delbrückが、ポリュビオスの信憑性に疑問を呈するなど各史料の大胆な取捨選択を行ない、古代の戦いを彼の目から見た客観性・合理性に従って再構成した手法は、当時の歴史家たちから批判を浴びました。

歴史叙述と理論的考察による再構成の関係を論じる、古くて新しい話題です。

合理性を基礎とするかはともかく、普遍的な「戦略の論理」という視点が古代世界の実態に照らして適当なのかという疑問はもっともでしょう。

しかし、現代的概念による分析を忌避するあまり戦略に相当する観念自体が存在しなかったとしたり、軍事的観点を社会経済構造の下に還元してローマ帝国の領域形成が意図的なものではないとする見解も極端にすぎると言えます。

この議論について総合的に検討したWheeler(1993, part1, pp.22-24; part2, 216f.; part2, p.221)は、古代の軍事ハンドブック類が編制、戦術や計略を主に取り扱っていて戦争計画のような視点が欠けていることや、現代軍事理論にいう「戦略」は18世紀以降の概念であってローマ時代に完全に当てはめることは難しいことを指摘しました。

しかしまた、理論的文書や用語で実体的な問題の有無が決定されるというのであれば、古代には外交や国際関係もなかったことになってしまうのであって、定式化された表現上の語彙はなくとも、古代の将帥たちは「重心」や「間接的アプローチ」のような軍事原則の本質は理解していただろうとも言っています。

また、戦略に相当する語彙が存在していたことも指摘しています(1993, part2, p.217)。

参考までに、彼の記している例から2つほど挙げておきます。

①ハンニバルがアンティオコス3世に助言した戦争計画に関して、リウィウスが用いている「戦争の全体計画de ratione universi belli」(36. 7. 16)や「計画consilium」(36. 7. 21)の語

②キケロ(Att. 7. 11. 3;  10. 8. 4)が、ポンペイウスの対カエサル戦争計画を「テミストクレスの戦略consilium Themistocleum」になぞらえてペリクレスと対比している事例

もっとも、これらratioやconsiliumといった語は戦術的な策略から大戦略に至るまでの広範な意味で用いられていたようではあります。
cf. Wheeler, 1988, pp.52-56

こうした議論を咀嚼しつつ、歴史家たちにもローマ史における「戦略」を考察する動きが現れます。

考古学的な遺跡の分布を手がかりとした考察などもありますが、特徴的な研究としては、ローマ人の社会や文化における特色に焦点を当てたものが挙げられます。

例えば、元首政期の対外戦略について取り上げたMattern(kindle, loc.1272-1282)は、対外政策の主要な決定は皇帝という一人の人物にかかっているとして、数世紀にわたる対外関係の長期的なパターンは復讐、恐怖、安全といった発想に求められるとしました。

ローマ人にとって戦略とは心理、道徳、地位の領域にある「価値観」に異ならないのであって、イメージが中心的な見地になるとしています。

また、Goldsworthy(1996, 114f; p.247; 285f.)は、当時の戦争の様相を理解する必要があるとしました。

経済力や人的資源が決定的なファクターとなるような戦いではなく、敵の戦う意志をくじくのが主眼であって、戦争は単純に領土の支配を巡って争うのではなく、常に政治的実体に対して戦われ、外見やイメージが重要であったと分析しています。

物理的な地理に基づいて行動するというよりは、士気の要素が結果を左右するとも言っています。

したがって、ローマ人の軍事ドクトリンは、あらゆる次元で攻勢の原理に支配されており、その戦略はしばしば無謀に近くなるとします。

また、しばしば現代の研究者たちから大胆すぎると批判されるカエサルの行動も、ローマ人の一般的なドクトリンに従ったものだと評しています。
cf. Goldsworthy, 1998

以前、Wheeler(1993, part1, p.17; part2, p.218)は、Luttwakと対立した研究者たちについて、個人や私的な動機にばかり注目したり、皇帝個人について知られていることに力点を置きすぎてローマ人の集団的な活動に関する幅広い見方を無視していると指摘していました。

古代史では、史料的な制約もあって、軍事的な意思決定過程の分析は情報量の多い重要人物を中心としたものになりがちなのは否めません。

そうした点で言うと、MatternやGoldsworthyの研究は、社会や文化に着目することで、皇帝・将帥個人の性格という揺らぎを超えて視野を広げる試みといえるかもしれません。

また、第二次世界大戦後における軍事史においては、戦争の文化的側面や「戦場の素顔(face of battle)」を取り扱った研究が流行したことによる影響も見過ごせないでしょう。

超越的な視点で戦略や戦術を論じるというよりは、指揮官による統帥や統率(generalship and leadership)のあり方に絡めた、ローマ人の戦争の流儀とでも言うべきものを探る試みにつながっていく印象です。

以下、ローマ人の軍事文化において重視された価値観であるウィルトゥスvirtus※に関する議論を手がかりにして、戦略との接点を考えてみたいと思います。

※ 男らしさ・勇敢さ・徳・能力・優秀など、さまざまな意味に使われる語です。

以前、カンナエの戦いにおける敗将ウァロの責任に絡めてツイートしたことがある、N.S.Rosensteinの研究から始めます。

https://twitter.com/cuniculicavum00/status/1292292089124855808?s=20

Rosensteinは、著書『Imperatores Victi』において前3-2世紀における敗将の事例を検討し、敗戦責任の所在を軸にローマ共和政のシステムを次のように論じました。

①敗将となった経歴があっても、後に高位の公職に就任している事例があり、必ずしもキャリアに不利ではない。

②敗戦の原因は、兵士の未熟と不規律のせいだと考えられていた。

③敗戦の原因は、宗教的祭儀の瑕疵によるとみなされた。

④敗将であっても、個人的に「勇敢さvirtus」を示す行動を取っていれば威信は傷つかなかった。

この大胆なRosensteinの主張は、根拠事例を再検討した研究者たちによって、現在では①〜④の各論の多くが疑問視されるに至っています。

しかし、ローマ共和政における戦争の役割の大きさから自然に連想される戦勝将軍の政治的優越が無条件なものではないと指摘した点では大きな意義があったと評価されています。
cf. Rich, "Roman attitudes to defeat in battle under the Republic."

ここで興味深いのは、上記④の「勇敢さvirtus」を巡る議論です。

Rosensteinは、ローマの指導者層たるもの出自的にも皆有能であるはずだという観念があり、将帥は戦場で「勇敢に」振る舞っていれば、たとえ敗北しても采配の不備を問われなかったとしました。

現代の軍人にとって指揮官の能力といえば戦略・戦術の才が思い浮かびますが、それらが重要視されていなかったという主張です。

直観的にもにわかに信じがたい説であり、さまざまに疑問が呈されています。

Tatum(p.639)は、政治的出世を目指すにあたっては若年時に軍団将校などの軍事経験を経ていること、大カトーの著作などから知られるように軍事ハンドブック類が存在したことを指摘しています。

「将帥は何らかのことを知っていると期待されていた。したがって、軍事的能力はローマ人から称賛すべき「勇敢さvirtus」の具現化として認められ、敬われていた」と批判しました。

また、Goldsworthy(1996, p.165, 170)は、ローマ人の指揮官にとっての実際的な技術的スキルは戦術ではなく、戦いの細部を監督することだとしました。

戦闘の現場近くに留まり、状況に応じて予備隊を差し向け、その存在で部下を鼓舞するようなあり方です。

したがって、指揮官にとっての「勇敢さvirtus」の死活的な側面はリーダーシップと部隊に密接した指導であるとし、元老院議員たちにはそうした勇敢さを示すことが求められていたのだと解釈しました。

Moore(pp.466-470)は、将帥のあり方は時代よって変化したとして、次のように説明しています。

・第二次ポエニ戦争頃まで、「勇敢さvirtus」を美徳とするローマ指導者層の強固な軍国的精神は軍事マニュアルの作成を妨げていた。ローマ人の一義的な戦略は、積極的な正面攻撃と不名誉な条件での投降の拒絶というものであった。

・ローマ軍の成功は、マニプルス隊形固有の柔軟性や兵士の訓練と経験、人的資源の厚みによるものであって、指揮官によるものではない。

・規則的な陣営のレイアウトに見られるような軍事的伝統と将校や百人隊長による軍議consiliumが、指揮を容易にしたに違いない。

・前2世紀以降、ヘレニズム文化の影響を受けてステレオタイプな「良き将帥」像※の影響を受けた。指揮官たちはギリシアの軍事科学や計略の知識を見せるようになっていったが、武勇として定義されるローマ風の「勇敢さvirtus」は重視され続けた。

※ibid.,464f. 自己犠牲と意図的な質実さのイメージ

・ギリシアの軍事文献を読んでいたスキピオ・アエミリアヌスや、書物で習う将帥を批判して実戦経験を誇ったマリウス(cf. Sall. Iug. 85. 13-15)の頃には、軍事マニュアルはより一般的になっていただろう。

・共和政末期、カエサルやポンペイウスのような指揮官は、ローマとヘレニズムの伝統を効果的に組み合わせた。大規模で複雑な軍隊を率いて長期の戦役を戦い、傭兵的な専門的兵士の忠誠を維持した。

結局のところ、このような議論においては、ローマ人のいう「勇敢さvirtus」とは何かということが最終的に問題となってきます。

ローマ人の考える男らしさについての包括的な考察を行ったMcDonnell(p.71)は、共和政期ローマにおいてその中心となる概念である「勇敢さvirtus」には、次の両面があるとしています。

①攻撃や責苦の下で示されるような堅忍

②一騎討ちで発揮され、兵士の間で称揚されるような攻撃的な好戦性

そして、このうち②の積極性がローマ人の「勇敢さvirtus」の本質であって、それゆえに社会的には制約されるべきものでもあったのだとします。

したがって、McDonnellによると、Rosensteinは上記②の好戦性を過小評価してしまったことが(p.71)、Goldsworthyは将帥の技能を「勇敢さvirtus」の名の下に引っくるめてしまったこと(p.70)が誤りだということになります。
cf. ibid., p.307 注38

ただし、注意しなくてはいけないのは、ラテン語のウィルトゥスvirtusという語が、非常に多面的な意味を持つ概念だという点です。

語源である「男性vir」との関係性、つまり戦いにおける武勇を主要な意味とすること自体は、変わらずに残っていきます。

しかし、ギリシア文化における「徳(優れていること)ἀρετή」の観念に影響を受けて、次第に倫理的な意味合いも持つようになっていったからです。
cf. ibid., p.141

Mcdonnell(328ff.)は、その意味合いでウィルトゥスvirtusの語を使用した代表例はキケロだとします。

政治的にはキケロ同じ「新人homo novus」であった前世紀のカトーやマリウスが武勲を立身の裏づけとして誇ることができたのとは対照的に、前1世紀には一部の将帥を除いて軍事的な力量を示す機会は減っていました。

先祖や自身の武勲というよりも、倫理的な美徳を強調することが、元老院議員として立身していくために一役買ったのかもしれません。

そして、当時、ローマ人古来の「勇敢さvirtus」を体現しているとみなされていたのが、ポンペイウスだとMcdonnell(296f.)は言います。

ローマのアレクサンドロスと仰がれたポンペイウスの武勇は、古くはマルケルスやスキピオ・アエミリアヌスに連なるような、騎馬武者としての一騎討ちの逸話に彩られていることを指摘します。

また、キケロがその著作中において、特定個人を形容するために最も多くウィルトゥスvirtusの語を用いているのは、ポンペイウスに対してだと言います。

キケロ(Cic. Imp. Pomp. 27-48)は、対ミトリダテス戦争の指揮官にポンペイウスを推薦する演説において、理想的な将帥の資質として以下の4つを列挙し、彼が適任であることを述べています。
cf. Rich, p.90; Mcdonell, p.307

① 軍事知識 scientia militaris
  ポンペイウスは書物で読むよりたくさんの戦争を行い、軍事知識を他人から教えられたのではなく自ら指揮することで学んだのだとキケロは強調しています。
cf. Campbell, p.21

② 武徳 virtus
      一般的な将帥の能力 virtus
  ・職務精励 labor in negotiis
  ・危地にあっての勇敢 fortitudo in periculis
  ・行動における精勤 industria in agendo
  ・実行における迅速 celeritas  in  conficiendo
  ・先見の明 consilium in providendo

      戦争の遂行を助ける倫理的資質
  ・無私・無欲 innocentia
  ・節度・自制 temperantia
  ・信義 fides
   等

③ 権威・声望 auctoritas
      ポンペイウスの場合、実績からくる「戦争運営と軍事指揮権における権威auctoritas ... in bellis administrandis ... atque in imperio militari」を強調しています。

④ 幸運 felicitas
  ポンペイウスの場合、戦歴から明らかだとします。
  ※ Rosenstein(161f.)は、国家ではなく将帥個人の幸運が対象とされている点が時代の変化を表していると指摘しています。

まず挙げられているのは軍事知識ですが、実務的な技能の詳細などよりも、若年から実戦で培った軍事経験に信頼が置かれています。
また、倫理性が強調されているのは、国政に参与する資質の正当性を育ちの良さなどにも求めるという意味で、多くの元老院議員たちの趣味に合致していたからかもしれません。
cf. Campbell, p.23

特に、ウィルトゥスvirtus(=武徳)の語は、多くの下位属性を含む重要な資質として詳述されています。

キケロの考える倫理的な美徳としての側面と、聴衆がイメージしたであろうローマ古来の武勇(eg. 強さ・勇敢さfortitudo )としての側面が融合しているように思われます。

一方、将帥に求められる資質に対して異なった認識を示しているのが、カエサルの著作です。

Mcdonnell(pp.307-313)は、カエサルはウィルトゥスvirtusを主に兵士にとっての「勇敢さ・堅忍」の意味で用いていると指摘します。

そして、指揮官の戦術・戦略的専門技能は、それを導くべきものとして対比されていると分析しています。

これは、ギリシア的概念とローマ的概念の対比というよりも、兵士と将帥の役割による対比だと言います。

また、カエサルは自身を馬上から指揮をとる英雄的な姿ではなく、徒歩で兵士と共に立つマリウス的なイメージで描写していることが多いとします。

Mcdonnellはさらに、『ガリア戦記』では、政治的同盟者であるポンペイウスが持つウィルトゥスvirtusの体現者というイメージに遠慮して、カエサルは自分にその属性を結びつける描写は避けたのではないかとも推測しています。

したがって、ポンペイウスの死後、カエサルの最晩年には自身をウィルトゥスvirtusを持った英雄的なイメージに作り変える試みがなされた様子があるとしています。

このMcdonnellの見解のうち、ポンペイウスへの遠慮による語彙の選び方といった議論はともかく、兵士と将帥の役割を分けて考えていたというカエサルの認識に対する指摘は、本項の主題にとって重要だと思います。

それでは、カエサルの言う、兵士たちの「勇敢さ・堅忍virtus」を役立てる将帥の技能や資質とは、どのようなものなのでしょうか。

カエサルの著作からは、次のような語が見出されるようです。

・判断・熟慮 consilium
・(軍事)専門知識 scientia
・計画・計算 ratio
・精勤・細心 diligentia
・迅速 celeritas

cf. Rich, p.90;  Mcdonnell, p.305, 307

キケロがウィルトゥスvirtus(=武徳)の概念中に含めたところの将帥一般に求められる能力と重なってもいますが、一見して倫理的な徳目という観点が薄いように思えます。

逐語的な解釈だけでなく、Goldsworthy的な「戦場の監督」イメージのように、ローマ人特有の文脈に注意する必要はあるでしょう。

しかし、直接の戦闘に至るまでに発揮すべき技能としては、現代人であれば「戦略」と呼ぶであろう観念を含んでいると考えてもよいのではないでしょうか。

Wheelerが指摘したところの、ローマ人の語彙において「戦略」の意味を内包するconsiliumやratioと言う語が含まれています。

ここで、ポンペイウスのイタリア放棄について、改めて考えてみたいと思います。

カエサル的観点でいえば、ポンペイウスのイタリア放棄計画は、兵士たちがウィルトゥスvirtus(=勇敢さ・堅忍)を発揮できる状況を作り出すための、将帥としての「判断・熟慮consilium」、すなわち「戦略」として評価できるのではないでしょうか。

しかし、キケロ的観点でいえば、「先見の明consilium in providendo」を働かせて案出したイタリア放棄計画は、より包括的な将帥の能力であるウィルトゥスvirtus(=武徳)の一部としてしか評価されないように思えます。

キケロは、ポンペイウスの計画を「テミストクレスの戦略consilium Themistocleum」という言葉で的確に表現することができました。

にもかかわらず、キケロがポンペイウスの計画に不信を持たざるを得なかったのは、軍事的な合理性が理解できなかったからというよりも、過去に自らが対ミトリダテス戦争に際して推薦したようなウィルトゥスvirtus(=武徳)の体現者たるポンペイウスのイメージとのギャップに原因があったのかもしれません。

部下・兵士の士気や周囲の抱くイメージが物理的な戦局を左右したと言われる時代にあって、将帥が示す行動力や倫理的態度は、施策の合理性に劣らず現実的に意味のある評価基準とみなされていたように思います。

キケロは、将帥の倫理的資質は戦争の遂行を助けるという考えについて、前述の推薦演説では例を挙げて説明しています。

例えば、当時のポンペイウス以外のローマ軍指揮官たちが、イタリアの町や畑地を行軍する際や同盟国を冬営地とする際に、いかに横暴だったかを指摘します(Cic. Imp. Pomp. 38)。

そして、ポンペイウスの進軍が信じられないほど迅速なのは、他の軍隊の歩みを遅らせるような略奪や快楽には目もくれないからだとしています(Cic. Imp. Pomp. 40)。

もちろん、理想論ではあったでしょう。

しかし、イタリア戦役におけるポンペイウスの姿勢は、彼に対する期待が大きかった分だけ、失望を招いたのかもしれません。

そして、この失望は、当時のローマ人にとっては、合理性と感情・倫理の対立というような観点で捉えるべき問題ではなかったかもしれないような気がします。

カエサル的観点であっても、将帥は「判断・熟慮consilium」だけでなく、「精勤・細心diligentia」「迅速celeritas」といった部下や兵士にも見える、すなわち彼らを動かす自らの行動が必要となります。

もちろん、カエサルが挙げているこれらの資質は、彼の重視していたものであって、ローマ人全体に一般化することはできません。

Rich(92f.)は、リウィウスがローマ史上の敗戦について語るとき、しばしば次のような語を用いて将帥たちを批判していると言います。

・軽率・無思慮 temeritas
・向こう見ず・強情・獰猛 ferocia
・無知・未熟 inscitia
・怠慢・不注意 neglegentia

また、アウグストゥスは「大胆な将帥より慎重な将帥のほうがましだ」と口にしていたと、スエトニウス(Aug. 25. 4)は伝えています。

時に、その大胆な迅速さが無謀と紙一重に見えるカエサルのような将帥よりも、慎重な将帥が好まれることもあったでしょう。

しかし、少なくとも、部下や兵士を鼓舞したり説得したりすることもなく帷幄の内に深慮遠謀を巡らして指示を出すといった名将像は、ローマ人にとっては馴染みの薄い観念だったように思います。

キケロが嘆いたように、イタリア戦役中、ポンペイウスが自らの考えを広く知らしめようとはしなかったという点は、注目に値します。

もちろん、カエサルであっても自らの決心、例えばルビコン川渡河を事前に周囲に喧伝したりはしないでしょう。

しかし、実行中の計画を知らせないのであれば、味方になってもらうのは難しいのではないでしょうか。

前述したEcksteinのポンペイウス評には、次のような表現が出てきます。

「伝統的なローマの(そして地中海世界的な)名誉規範を無視し、イタリアを見捨てて「逃亡した」将軍」

これは、ポンペイウスがイタリア放棄によって得た軍事的有利と引き換えに傷つけることになった、過去の名声を念頭においているのだと思います。

Ecksteinは、古代地中海世界は弱肉強食のリアルポリティクスが優先される好戦的な世界であったとする、『地中海アナーキーMediterranean Anarchy』という印象的なタイトルの研究書を記している方です。

ポンペイウスが内乱に巻き込もうとする他の地中海世界の人々にとっても彼の評判は関心の的だったはずですが、多かれ少なかれ、将帥の「勇敢さ」はローマ人以外にとっても重要な規範であったという見解が、括弧書きの部分に表れているのかもしれません。

イタリア戦役後、ポンペイウスがその「戦略」を実現するためには、改めて自身のウィルトゥスvirtusを示し、人々を納得させる将器であることを証明する必要があったのかもしれない、などと思ったりします。

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参考文献 追記:
(2021/3/25)
戦史の探究様
【ポンペイウスの対カエサル戦略_イタリア戦役】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Dec-07

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