果たして彼女は実在したか? 1

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 下弦に向かう半月が、南の空を通り過ぎ、西に傾く深い夜。
 その“想い”は奇妙なリアリティを伴って、ぼくの脳裏に舞い降りてきました。
(そうだ。それがいい)
ぼくは、そう、ひとり呟きます。

――深夜のビルの中はとても静かです。
 換気ダクトだかなんだか、高い天井を走る太い管が、時折寝ぼけた赤ん坊のようなかすかなうなりを上げるばかりで、広々とした人工的な空間には、流体であることを忘れたかのような空気が滞り、ソリッドな気配さえ漂わせています。
「ジー、ジージージージー」
 あっ、いま、蛍光灯がかすかにうなりはじめました。
 寿命が尽きかけているのでしょうか、何百本とある蛍光灯の中の1本、そう、ちょうどぼくの真上の1本が、霜の降りはじめた初冬の叢(くさむら)に鳴く逝きおくれたコオロギのようなはかなさで、静かに鳴きはじめたのでした。

 そんな中、ぼくはこうしてモップを振るっています。
 白濁したワックス液を墨汁のように糸モップに馴染ませ、まるで書家が巨大な筆で大書するような気分で、左から右へゆっくりと一と書きます。
 手首を返し、今度は右から左へと逆向きに一と書く。さらに再び左から右へ一……。畳二畳ぶんほどの床面を一の連続で埋め尽くしたら、今度は腕を思い切り伸ばして後ろから前へ1。手前に引いて1……。
 後ずさりしながら広大な床面を均一に塗りつぶしていきます。

 ひとりきりの無言の作業――ぼくのお気に入りのひと時です。
 なんというか、ある種、瞑想にも近いような落ち着きのある時間なんです。頭の中がとてもクリアーになって、考え事がまとまる。しかも、単にまとまるだけではなくて、脳裏に浮かぶ様々な想念が、ことごとく浄化されていく感じがするんです。
 不意に舞い降りた極上のイマジネーションを、細かいディティールに至るまでじっくりゆっくり煮つめ終えると、ぼくは、この想念を現実世界にしっかり定着させるべく、今度は敢えて声に出して呟いてみました。
「そうだ。それがいい」
 モップの手が止まる気配を感じました。仕事の相棒Gさんが、声に反応して、こちらを見ています。
 ぼくはすかさずモップを床に置いて彼の元に歩み寄り、
「Gさん、明日の化粧品コーナーのことなんですけど……。髪の毛を1本残らず取るように徹底的にやりませんか? ちょっと大変ですけど……」
 そう言いました。
 先ずは意図だけを伝え、反応を見ながら理由を説明しようと思ったのですが、
「よかですよ」
 Gさんは即座にそう答えました。
 彼は、ぼくより20歳ほど年上の、50歳を少し越えたぐらいの九州男児です。
 普段から口数の少ない寡黙な方ですが、即答された「よかですよ」にはなんとも言い知れぬ力強さがあり、ぼくは継ごうとしていた二の句をそのままに飲み込みました。