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読書メモ「改訂 精神分析的人格理論の基礎」

「改訂 精神分析的人格理論の基礎」を読んでいると、あれこれと意識レベルに浮かんできてしまう。
読み進めるのにどうしても時間がかかる。

以下に浮かんだものをそのまま勢いにのせて記述する。


別の書籍だが、森田ゆり「子どもへの性的虐待」を読んでいても同じだ。
フラッシュバック、フラッシュバルブ記憶のどちらなのか判別がつかないが、感情は騒ぎ、意識下において騒ぎ出す。


「改訂 精神分析的人格理論の基礎」には「心理療法を始める前に」という副題がある。著者である馬場禮子さんの記述によれば、意識のレベルにおいてあれこれしなければならないというのは、たいへんに忙しいという。

自動車を例にした記述では、経験も知識も意識のレベルにあり、教習所の教員から「このようになさい」と指示まで受けるため、運転操作のすべてを意識のレベルでどうにかしようと試みる。

やがて慣れていくと? 私たちは意識レベルにあげないままでも赤信号を見つけては減速して停車するし、車線変更時には方向指示器を利用したのちサイドミラーなどを用いたり直接目視で後方確認のうえで車線を変える。

慣れていくほど前意識の領域で行えるようになっていく。このとき「ああ、あのときこう操作したな」と意識化することもできる。

睡眠不足時、法律上違反となって久しく重大事故に繋がる飲酒時の運転においては前意識での自我が働きにくくなり、前意識における操作が覚束なくなる。
そのため信号を見落とすような確認が不足したり、ブレーキを踏み忘れる・車線変更時の確認・方向指示器の操作を忘れるといった操作面での覚束なさが増すため、非常に危ないのだ。

自転車でもわかりやすく説明できるのではないか。
乗れない頃にはどのようにバランスを取るのか、どれくらいペダルをこげばいいのか、意識下であれこれと取り扱おうとするし、実際にうまくこげるようになるまでは転倒したり、転倒さえ意識したりと、とにかく負担が大きい。
しかし乗れるようになってしまえば、それらは意識せずとも自然に行える。前意識の段階で操作ができるのだ。


前意識だけで制御している、というと語弊はないか。
無意識のまま、あるいは前意識に留まらず意識から無意識に取りこぼしたことなどが自動車においても自転車においても、その操作において危険を伴うことがある。

自動車においては高速道路における通行帯違反などがわかりやすい。また昨今では車線変更時の方向指示器の不使用などもかな。
自転車においては歩道では歩行者が最優先であり、警音器、一般的にいうとベルを用いて歩行者に対してみだりに鳴らすものではない、ということもかな。
歩行者が横に並んでのんびり歩いていたとして、それはベルを鳴らしてどかしていいという根拠にはならない。警音器を使用するほどの危険な状況に該当するのか。邪魔なのが?

自動車においては教習所にて習うが、知識が漏れなくすべての人の意識から前意識に浸透するのかといえば、課題があるだろう。
あまりにも多種多様な人が集まるのだから、全員に一律にと望むのであれば「教習所での学習、あとは個別に頼む」という手立てには限界がある。
自転車においては、自動車よりも身近なものとして、人々の運用の幅の広さにおいても身近であるためにむずかしい。

そのため、たとえば自動車を例にしても、自転車を例にしても、なかなか意識、前意識、無意識における個人差が目立つのではないか。苦しいところだ。
このあたりは交通心理学の領域なのかな。

なので、そろそろ話を戻す。


なにげなく振る舞うときの意識、前意識。
どちらに留まることもない無意識。
無意識に存在するものが意識にあがってきて、どうすることもできなくなってしまったら?

ひどく厄介だ。

のみならず自分の言動から自分の意識、前意識、無意識を読み取ることもできるとしたら? できない、できなかったことにも気づく。

こうしたことはクライエント、セラピストどちらの立場でも起こりえるのではないか。

そのとき、セラピストは感受性という資質を用いて「気づける」ように努めるとしながらも、同時に「意識において、あれこれと対応する」ことのむずかしさ、大変さが既に述べられている。


無意識下に留める、ふたをしまう、押しこめる。
そうしておくことで自衛したり、感情や衝動が刺激されないようにしたりする。
そういった過去が、体験が、人によって存在する。
質も量も人によるだろう。
過去・体験にかぎらず、だれかとの関係性かもしれない。
なにかをしてしまった、言ってしまったことかもしれない。
言わなかったこと、しなかったことかもしれないし、そうすることによって相手に浴びせてしまった・浴びせられてしまったことかもしれない。

「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」という書籍においては「過去は消えない」「取り消せないし、なくせない」としながらも「過去から受ける影響の緩和・低減」は可能だとしている。


今回、注目するのは「過去から受ける影響」そのものだ。

それは意識か。前意識か。無意識なのか。
ひとつに限定されるわけではあるまい。
そのためにセラピストはクライエントの過去について尋ねる。
語られるものから、クライエントの意識、前意識、無意識になにがあるのかを「傷ついた治療者」として、傷を通じて感じとるのかもしれない。
それゆえにセラピストは己の傷と無関係ではいられない。

仮に被害を受けたとき、その場に「いること」の困難さが増すのは、意識・前意識・無意識において過去の被害経験を繰り返さぬように備え続けなければならない危急の状態に陥っているためだとしたら。
そうでなくても普遍的にだれもが「痛み」「苦しみ」から逃れよう、再現しないよう意識・前意識・無意識において備えるのだとしたら?

被害を受けた状態は、そうでないときに比べて機能が無理を押して活動しなければならない状態に陥っている。
過剰な負荷が「いること」を困難にしていく。
過剰なほどの負荷をかけながら危険はないか、自分を脅かさないか、いまある傷を刺激するものはないかと探ってしまう。
それとは別に、いまをよくするものはないか、いまある痛みや苦しみを低減できるものは? 緩和できるものはないのか。支えは? 強化してくれたら助かるものは? と探す。

いずれも自然な働きであるが、そうした欲求と、具体的な行動とは必ずしも一致しない。お腹がすいたらだれもがご飯をただちに食べるわけではないように。世界中のだれもが飢えずに済むかといえば、そうではないように。

被害を受けた状態でなくてもそうなのだから、過剰な負荷の最中にいるときには、よりギャップが生じることさえある。
選択した具体的な言動と結果から、欲求とのギャップを見つめて改善したり調節したりといった、その先の段階においても困難が伴う。
過剰な負荷のなか、痛みや苦しみに苛まれていて余裕がないときには、より困難さが増すだろう。

そうした困難さから、どのような状態に陥るのか。

これに関しては依存症や共依存といった領域に接続することで学べることが実に多いというのが現状の認識だ。

こうした文脈で出てくる「依存」ということばの語感は非常に強い。
一般的に「依存はよくない」とされている。
だが、実際にはちがう。
たとえば共依存、依存症と呼ばれるものにおいては「過剰な負荷を軽減する」「いまの苦境を緩和する」、その「唯一の方法」として「なにかしら」に「依存」する。

なにかしらに当てはまるのはなにか。
薬物、飲酒のような物質の頻用。労働、運動、買い物、賭博、性行為などのような物質や行為への身体的、精神的な依存。
「唯一の方法」として「負荷軽減」「苦境緩和」、なんなら「現状打破」のために「列挙したもの」「のみ」に依存するとなると、どうだろう。
好ましいだろうか。そうではないだろうか。
だとしたら、それはなぜそう感じるのだろうか。
「選んだ手段」か。「手段と結果が結びつかない」ことか。「気晴らしに過ぎない」ことだろうか。

しかし、こうした依存症、共依存さえ「そのとき、他に術がない」のだとしたら?
「生きるために必要な手段」なのだとさえいえる。
依存症に陥るほど苦悩を抱えているときには希死念慮さえ生じているケースがあり、まさに死なないために依存しているのだとする見方がある。

ではどうするのか。
「手段」か。「依存」そのものではなく「手段」が鍵なのだとしたら、どうするのか。

先に列挙したもの「だけ」になることに対処するのか。
そもそもひとつひとつの「行為」を変えられればよいのか。
それができないからこその「いま」なのではないか。
だとしたら、いったいどうする?

他者からの注意や接触、保護を求める行動傾向として、面倒をみてもらいたいとする欲求が過剰になり、服従的でしがみつくような行動となる。そうしたことさえ生じる。分離することを極度に恐れてしまうのだ。
そうした状況における「特定の他者」であったら?
他に信用することができなかったら、どうする?

その人物が問題になるのか。その人物「だけ」になることが。

私たちは社会的営みのなかで、実に多くのものに依存している。
衣食住において、数多の依存なくして生活は営めない。
移動にしてみても鉄道各社、バスの運行、ときにはタクシーに頼るし、自前で移動するとしたって自動車、バイクなどの車両もまた、数多の依存なくして存在せず、購入することもできない。

半導体の供給問題が騒がれるようになって久しいが、スマホ業界のみならず、いろんな業界にとって半導体はなくてはならないものになっている。強く依存しているといっていい。

実のところ、ありふれたものとして依存は膨大に存在している。
だとしたら依存そのものが問題なのではない。
では、なにが問題なのだろうか。

たとえば結果を得たいとしたときの依存はどうか。

たった一度の挑戦にすべてをかける、という手段と、何度でも挑戦する、という手段とでは、どちらが依存として、目的に適うだろうか。

後者が可能であるのならば、後者を選びたい。
一度に限定する必要性などないのだから。
だが何度も繰り返す「だけ」では無為な行為に思える。

どうせならばひとつひとつの挑戦から学び、より結果に即した知識なり技術なりをくみ取って活用したほうが、挑戦の質を改善できるのではないだろうか。

だとしたら、この「挑戦から学ぶ」という手段が依存として増える。
ただただ「挑戦から学ぶ」というお題目に依存するのではない。
実際には、いかにして学ぶのか、いかにして技術に落とし込んでいくのかという具体的な方法と行為にこそ、私たちは依存先として接続する。

このように具体的な事柄へと、どんどん依存を繋げていくことで、求める結果に存在するものを分散させていくのだ。

しかし唯一、ただそれだけにしか依存することができないとなると、どうか。

選べることがすくない。できることがすくない。
極めて限定されている。
なにせ手数がないものだから、それがうまくいかないと、もう後がない。それほどまでに追いつめられてしまっている。

いうなればサバイバル未経験かつ知識ろくになしという挑戦者が無人島に放り出されたサバイバル動画と、潤沢な資金をもとに東京大阪、まあどこでもいいので繁華街で食い倒れてもらうツアーほどの差がある。

このように比較したとき、どちらが望ましいだろうか。

望ましさは別として前者に陥り、かつ手を増やすどころではなくじり貧となり、それゆえに「いまできるもの」「接続できること」に縋ることで精いっぱいな状況に陥ったら?

実際に存在するよね。そうした状況は。

そのような状況に陥った現実を生き抜くのは至難の業だ。
生きていてくれてよかった、と。
あなたにとって、生きるために必要だったのだ、と。
そうした状況さえあり得るのだ。

福祉、支援の肝は、いかにして困難に陥り苦しんでいる人たちが安心して選べる選択肢を増やせるまで癒やせるのかにあるのではないか。
だとしたら、これしきの記述では到底足りない。
養育環境の問題、被害体験など、あまりにも過酷な状況が現実には存在するのだから、意識・前意識・無意識に存在する不信感や不安感は生半可なものではない。なによりそれが当事者それぞれにとって、ともすれば大事な生存戦略になっていることも忘れてはならない。

このようにせよ、このように考えなければならない、このようなことはするべきではない、などといった振る舞いを「選ばず」、徹底的に傾聴するなどを経る心理療法に向かうのだとしたら、とても納得がいくものである。

依存先を増やして負荷を分散させていく。
負担を軽減させたり、危機が起きる可能性を下げたり、緩和させたりする。

それは現実で私たちが日常的に行うことであると同時に、ときにひどく困難であることを突きつけられることでもある。

まして過剰な負荷に晒されて、傷つき、その影響をいまもなお受け続けているのだとしたら、なおさらむずかしいことだろう。


依存そのものが問題なのではない。
依存先がすくないことが、まさに私たちを苦しませるものだ。

顔も知らないだれかが「自分の思いどおりになる」。こうした依存のみにあなたが縋るしかないとしたら、どうだろうか。
癇癪を起こす、不機嫌になるどころの騒ぎではない。
世界はあまりにも恐ろしいものになるのではないか。
顔も知らないだれかは決して自分の思いどおりになるものではない。
そもそも身近な人はおろか、自分自身でさえ「思いどおりになる」ことはなく、「思いどおりになっている状況がつづく」わけでもない。
結果として、あなたの思いどおりにならないことだらけになる。

ひどく当たり前のことではあるのだが。

身近な人、いわゆる「おとな」とされるもの、成熟した存在を目的として、そのように振る舞うことを規範にしたとき、周囲もまた、そのように受けとるべきか。
もちろんちがう。
それぞれ、ひとりひとりに委ねられている。
しかし「みんな、このように考えるべきだ」という欲に依存するとき、異なる現実は自分をひどく不安にさせる。だれかが「このように考えるべき」に反するたびに、苛立ちを感じたり、攻撃されたように感じたりするかもしれない。

もちろん、このような依存に執着するほど、不安定になることだろう。

依存先がすくないことが問題なのだとした。
ならば、このような依存に執着できるように、いまを成立させるための依存先を増やせばよいのだろうか。
実際にそのように考えて行動する者もいるだろうし、過去にあまりにも大きな罪を犯した者たちの歴史が残されている。

問題はそれだけではない。
「依存先がすくない」という記述のみに依存できれば、その先を思考せず、調べることもせずに済んで、さぞや楽だろうが、それこそまさに「依存先がすくない」状態である。
そうではない。

生きていれば必然的に傷つくことがある。傷つけてしまうこともある。
そういうものだと居直り、傷の処置もケアもしない?
それは極端というものだろう。
そうではなくて、先がある。
傷つけば痛いし、傷つかないようにしたくなる。痛い思いはしたくないのだから。
そうしたとき、できることはあまりにも多く、多すぎるために意識レベルで行おうとすると、世界が小指をぶつけたタンスのカドにまみれたり、悪口や陰口を叩いただれかだらけになったりしてしまう。
そうした不安を抱えてもなお、不安を癒やすなにかを求めずに、数多の依存の存在する社会のなかでゆるやかに生活していられるという実感があればよいのではないだろうか。

極度に怒り、暴れ狂い、罵倒したり無視をしたりと起伏があり、殴る蹴るまで辞さないどころか、積極的に加害をして支配を続けようとする人の監視下のもとで仕事をするなんて、耐えられない。
だが、あなたが意欲をもって仕事に臨むかぎり、どのような失敗であれカバーして、ケアしてくれるのみならず、上達を見守り、尋ねれば柔和に応答してくれる人と仕事をするのならば、どうか。

あなたは自分自身に対して、どちらだろうか。
だれかに対して、どちらだろうか。

意識にのぼり、騒ぐ声はなんと言っている?
あなたに、あるいはだれかに、なにを求めている?

たいへんに忙しいあなたの思考が、感情が、衝動が、だれに向けることで発散されるのかな。どちらだと感じている? 相手がいるのなら、相手はどう感じるだろうか。

言動を選択する、その前に、よく考えておきたい。
選択したあともまた、言わずもがな。振り返りは大事だ。
そう大げさな話ではない。ただの予習と復習である。

振り返らざるをえない、どうしても浮かんでしまう過去や体験があるのならば、復習項目は多くなるだろう。
今後の人生に活用するとなれば予習範囲も増えることだろう。
ああ。なんて忙しい。


「傷ついた治療者」もまた、自分の傷に自覚的であるからといって油断してはならない。
意識でも前意識でも捉えられない無意識での言動によって、クライエントを傷つけてしまう恐れがある。
そのためにどのような心構え、具体的対応が求められるのかが記述されている。

感受性は素晴らしい資質であるとしながらも、それが、もしも「かつて傷ついて気づいてしまうようになった、わかるようになってしまったこと」の蓄積によるものだとしたら?

感受性を備えるというのは、とても悲しいことなのかもしれない。

しかし、悲しみを抱えながら手放さずに資質に育てることができるのだとしたら、それは呪いのようでもあるが、強い祈りによって育まれる資質だと言うこともできるはずだ。


そこまでは考えられるのだが。
しかし、過去がいろいろと浮かんできてしまって、どうにも捗らない。
参ったなあ。

よい一日を!