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射精責任の感想

「射精責任」という書籍を読んだ。


避妊にまつわること、射精の作用、それによって生じる責任についての記述は「コンドームの装着を」「男性が自発的に担うもの」「女性がなにをどう言おうと男性側が選択できること」「女性がなぜそれを担う必要が?」「女性がなぜそれを簡単に言えると?」というもの。
出産がいかに危険で影響のあるものか。養育にまつわるあまりの負担の連続と、その期間の終わりのなさ。養子縁組に絡む問題、養子におけるトラウマの話にも触れている。
この点において「目新しいものではない」「それゆえに、いまこれが話題になることの遅さについてめまいがする」という意見も見かけた。

赤子を捨てる、遺棄する、こどもの虐待やDVといった問題が報道されるとき、いつだってやり玉にあげられるのは母親、女性であって、父親、男性の話は語られない。または母親ほど焦点が当てられない。
そのように感じることがあまりにも多すぎる。
これは妊娠、出産においても共通して言えることではないか。
女性が妊娠したとき、まずその女性を主題にして、男性をあまりにも自然に語るものから除いて、妊娠の過程においても、その後の対応においても、その他もろもろすべて、まず女性のみの話だと語りがちではないか。
父親、男性の話題があまりにも自然に排除されてはいないか。

17段目における男性へのクイズを眺めてみてはどうだろうか。

ふたりきりの行いがすべからく優しく穏やかか。
だれもが問題を抱えずにいるのか。
性教育も、それを一部とする人権教育も不十分な現状で、触れる段階からセックスに至るまで、だれもがお互いを思いやって、傷つけることなく、一方的になることもなく、スムーズにいくと?
だれも問題など抱えていないと?

仮に暴力的なことが起きたときを思い描いてみる。
すべての女性が男性を捨てられるだろうか。
振ることができるだろうか。

そもそも、なぜ「女性のするべきこと」みたいになるのか。
こう述べるべきではないのか。

なぜ男性は女性に暴力的なことをしたのか。
なぜ継続的に自分の都合のままに女性を相手に性的行為に及ぶのか。
自分の行為がどのようなものか、相手にとってどういうものなのか、知ろうともせずに。伝えられるもの、伝えてこないものだけを理由にして。
そもそも女性の反応だけを理由に、なんでもしていい、女性の言動が免罪符になると、どうして思えるのか。男性の意思と選択をすり替えられるわけがないのに。

そんな者を相手にいっしょに過ごすほかない、あるいは遠ざけたいのに術がないときにも、相手が求めてきたら?
いや。やはり、これも言い換えよう。
自分のことを脅かすばかりで、訴えても話が通じず、興奮すると自分にべたべた触れてくるだけでは済まない人がいたら?
別れるのがどれほど困難か。ストーカー行為にまで発展する可能性は? 他のあらゆる犯罪行為に及ぶ可能性は。そこまででなくたって、仮にいやだ、やめてと伝えることだけでさえも恐怖や不安が伴うのに。なぜ、それをだれもが当たり前にできるものとしてしまうのか。

それが妊娠にまで及んだら。出産するほかなくなってしまったら?
その段に至っても尚、自分本意なままだったら? こどもの親として、その気質はこどもにも向くのではないのか。
迫りくる出産、育児、その他の選択に次ぐ選択をしなければならない瞬間が日々せまりくる。
これをひとりの女性だけに負担させようとしていないか。それもあまりにも当たり前に。男性を免除するように。あるいは排除したとして、その負担も恐れも、なんら軽減されるわけではないというのに。
しかも父親がいないということはどうなのか、という問いまで、まるで当たり前のように負担させようとしていないだろうか。
こどものことを思うと、どうなんだろうか。いいところもあったのでは。いい時期もあったから。そう揺さぶられる不安さを、ただひとりに押しつけて、当たり前に求めていないか。「それは女性“だけ”の責任だ」などと思っていやしないか。責めて、済ませていないか。

そこに、甘えていないか。

それで、済ませていないか。

そうして何重にもかけて、傷つけて、殺してはいないか。

女性を。パートナーを。
何人も。何人も。

仮に教育が不足しているというなら、たしかにそうだ。けれどそれは自分の行い、選択を正当化するものではない。

だれかの問題だなどと声高に叫んだところで、自分の行い、選択を正当化するものではない。

かつての無責任は、決して消えるものではない。

許されるものではない。

なにかをしても、消えるわけではない。

けれど、風邪をひいたままマスクをせずに外に出て、人がそばにいてもくしゃみをするような軽さで、いまもどこかで行われている。

自分の無責任さをふり返るとき、それがたとえ、どれほど昔のことでも、決して消えることはない。どんなに愚かで醜いものだとしても、決して許されるものではない。

ちょうど、このnoteを記載するうえで母なる証明を流していた。
舞台となる場所では、だれもがそばにいながら、すぐそばにいる人の(大体は噂として刺激的な、つまり人の苦しくも恥ずかしく情けない)事情を知りながら、見て見ぬ振りをする。
多くの人が似たような痛みや恥を経験していながら、決して干渉することはない。
そうして傷ついたひとりひとりが、さらに傷つきながら、いまをなんとかやり過ごしていくし、自分にとって利用しやすい者を自分の慰めに扱う。
ときに犠牲にするし、それになんの感慨も抱かないことさえある。
しかし、すべては残る。
消すことはできない。なくすこともできない。
痛みも加害も被害も、そのすべてがたしかに己の中に残り、留まる。
影響から逃れようとして老婆は酒に溺れ、彼女を養うために孫の少女は身を売る。母は息子と心中しようとして失敗し、農薬を飲ませた記憶ごと消そうとツボを押す。記憶を蘇らせる指圧も教えながら、共に寝て、共に過ごす。時間が止まったように。
痛みから逃れる術が、まるで痛みの中にあるように。痛みの前にしかないように。だれかの痛みによってしかごまかせないかのように。
自分だけで精いっぱいだし、自分をごまかすので余裕がなくなるから、だれかを利用するし、見て見ぬ振りをする。
その繰り返しのなかに、セックスも、妊娠も、出産もある。となれば、親になる人だけではない。かつてこどもだったすべての人にも、影響の根が張り巡らされている。

父親は、出てこない。

よい一日を!