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瞑想難民と思考停止についての考察

瞑想難民と言う言葉をツイッターをやり始めて知った。

どういうものか、誰の言か、未だ良く分かっていないのだけれど、ブログ(私≠思考)で思考停止と言っているものと同じだと思う。

日常生活において、仕事や家事など、やるべきことは沢山ある。

その様なモノには期日があり、だいたい以下の様に進む。

・時間の経過と共に期日が迫ってくる
・禅や瞑想で心の安定を得ている気になり、やるべきことが放置される
・事態は進行し続け、気付いた時には手遅れ、周りに迷惑をかけてしまう
・それでもなお、それらを「意に介さない」ことを、心の成長と思い込み、ますます自身の殻に閉じこもる
・考えようとしても、無意識に思考停止(自己防御反応)する様になり、自らの努力ではどうしようもなくなる

心の安定(成長)のためはじめたつもりが、自身でも気付かないうちに、逃避の手段にしてしまう(脳は言い訳がうまい)。

真面目で責任感が強い人、心の優しい人ほど、こうなる傾向がある。

(人として)優れた性質であっても、周りの環境が全く逆であれば、本人(マイノリティ)にとって苦痛でしかない。

その様な人ほど、自罰的で、我慢しがちで、自ら環境を変えることは”逃げ”で、潔くないと感じる。

逃避だとしても、選択的に開かれた行動と、限定的に閉じていく行動とでは、意味合いが異なる。

俗世は他人との”かかわり”で成り立つから、環境(仕事や家庭)に対する不満(不安)であっても、突き詰めれば人間関係だったりする。

他人は変えられないから、自身が変わるしかない、と言っても、いまやれること、やれないこと、は人や環境によって異なる。

環境を変えることで、解決することもある。

良い意味での流動性を保てる社会であれば良いのだけど。

何れにしても、この手の話の”根っこ”の部分は、構造的(入れ子)な問題だから、解決しているようで、単に(問題を)すげ替えるしかない。

その様な解決不能な問題を解消するための禅や瞑想ということだと思う。

※それを目的化してはいけないという話は置いといて・・






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